[抜書き] 『日本の歴史をよみなおす(全)』


『日本の歴史をよみなおす(全)』
網野善彦・ちくま学芸文庫
二〇一二年一月三十日 第二十刷
    【目次】日本の歴史をよみなおす(全)

    −−日本の歴史をよみなおす−−

     はじめに

    第一章 文字について
      村・町の成立−−遺跡の発掘から   日本人の識字率   片仮名の世界   女性と平仮名   文字の普及と国家  
    第二章 貨幣と商業・金融
      宋からの銭の流入   富の象徴   どうしてモノが商品となるか   どうやって利息をとったか   神仏、天皇の直属民   聖なるものから世俗のものへ   鎌倉新仏教の役割  
    第三章 畏怖と賤視
      古代の差別   非田院の人びと   ケガレの問題   「非人」の出現とその仕事   特異な力への畏れ   神仏に直属する「非人」   河原者   放免   童名(わらわな)を名乗る人たち   聖別から卑賤視へ   『一遍聖絵』のテーマ   絵巻をさかのぼる   差別の進行   東日本と西日本の相異  
    第四章 女性をめぐって
      ルイス・フロイスの書物から   男女の性のあり方   太良荘の女性たち   女性の社会的活動   女性職能集団の出現   公的世界からの女性排除   穢れと女性   女性の地位の低下  
    第五章 天皇と「日本」の国号
      天皇という称号   「日本」という国号の歴史   天皇の二つの顔   租税の制度   「職の体系」、神人・供御人制と天皇   仏教と天皇   日本列島には複数の国家があった   天皇家の危機   権威と権力   大転換期  

     あとがき

    −−続・日本の歴史をよみなおす−−

     はじめに

    第一章 日本の社会は農業社会か
      百姓は農民か   奥能登の時国家   廻船を営む百姓と頭振(水呑)   村とされた都市   水田に賦課された租税   襖下張り文書の世界  
    第二章 海からみた日本列島
      日本は孤立した島国か   縄文文化   弥生文化   西と東の文化の差   古墳時代   周囲の地域との交流関係   「日本国」の誕生   「日本国」の範囲   海の交通と租税の請負   金融業者のネットワーク   諸地域での都市の成立  
    第三章 荘園・公領の世界
      荘園公領制   塩の荘園、弓削島荘   鉄・紙・漆の荘園、新見荘   銭の流入   請負代官の業務   山臥の代官  
    第四章 悪党・海賊と商人・金融業者
      悪党と海賊   「悪」とは何か   一遍の教え−−都市的な宗教   貿易商人、事業家としての勧進上人   村と町の形成   海の慣習法  
    第五章 日本の社会を考えなおす
      「農人」という語   「重商主義」と「農本主義」の対決   新しい歴史像   飢餓はなぜおきたのか   封建社会とはなにか   西園寺家の所領   海上交通への領主の関心   「重商主義」の潮流  

     あとがき


     はじめに
     短大の諸君を教えはじめて十年ちかくになりますが、いろいろとびっくりするような経験をすることがあります。 私と約40年ぐらい年齢の開きがあると思うのですが、基本的な生活様式が、まったく変わってしまっているということにしばしば気がつくのです。 たとえばここ二、三年、宮本常一さんの『忘れられた日本人』という岩波文庫を使ってゼミナールをやっていますが、それを読んでいるうちに、私のような世代と二十歳前後の人との知識のちがい、というより、生活自体が異なっているが故にでてくる基本的なものもとらえ方のちがいにしばしば出会います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全) はじめに》P.011)


     具体的な例を申しますと、たとえば「苗代(なわしろ)」ということばが出てきます。 苗代については、当然みなわかっているのだろうと思っていましたが、だれも知りません。
    (《日本の歴史をよみなおす(全) はじめに》P.011)


     また、「五徳」が出てきても、これもまるで彼らは知らない。牛や馬が働いている姿も彼らはまったく見たことがない。 せいぜい、牛なら乳をしぼる牛、ホルスタインなどはときどき見たことがあるのでしょうが、馬は競馬の馬をふくむ乗馬の馬しか見たことがない。
    (《日本の歴史をよみなおす(全) はじめに》P.011)


     宮本さんの本の中には「かったい」とか「かたい」ということばもしばしば出てきます。 「レプラ」という文字もあの本の中にははっきり出てくるのですが、彼らはこの病気そのものをまったく知らないのです。癩病といいかえても、いかなる病気かととうことさえ思いつかない。エイズといえば、もちろんいろんなことを知っているわけですが、癩病という語彙そのものはもちろん、病気そのものを知らない。 世界的にはもちろん、日本でもまだこの病気や、それにともなう差別に苦しんでいる人のことも知らないのです。このようなことにぶつかるにつけて、私は日本の社会と自然とのかかわり方が、いろいろな意味で現在大変大きく変化しつつあるということを、否応なしに思い知らされました
    (《日本の歴史をよみなおす(全) はじめに》P.012)


     村・町の成立−−遺跡の発掘から

     柳田国男さんが、すでに指摘していることですが、日本の村は、その四分の三ぐらいが室町時代に出発点を持っている。 この数字どおりかどうかは検討する必要がありますが、最近の考古学による発掘調査の成果を見ておりますと、たしかに、十四、五世紀以降の集落と、それ以前の集落や町のあり方には、非常に大きなちがいがあるようです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.015)


     東日本の場合には、文献が少ないのであまりはっきりはいえませんが、日本列島の主要部に、村と町といえる明確な実体を持つ集落が安定的に成立するのは、だいたい十五世紀ぐらいからといってよいと思います。 これは柳田さんの、かなり直観的なところのあるさきほどの発言とよく符合します。 そこで成立した村と町が、江戸時代を通じて生きつづけ、自治的な機能を一貫して持ちつつ、江戸時代の基本的な単位になっていったのです。 最近、勝俣鎮夫さんは、それを「村町制」という表現で特徴づけておられますが、こういう「村町制」が現われてくるのが、だいたい十五、六世紀と考えることができるわけです。 そしてそこで生まれた村と町こそ、まさしく最近までの村の大字(おおあざ)や都市の原形となったのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.019〜020)


     日本人の識字率

     また、これは私自身の経験ですが、私は全国の江戸時代の古文書を仕事の必要から見ており、それを読んで筆写をしたりしていたのですが、ごく最近ふっとなぜ自分が九州の文書を読めるのだろうかと疑問がおこってきたのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.022)


     つい四、五年前、鹿児島にいったときのことでした。 バス停で五分ほど待っているあいだ、隣にいたお年寄り二人が、楽しそうに笑いながらいろいろな話をしているので、何を話しているのかなと思って、なんとなく耳を傾けて理解しようとしたのですが、何を話しているのかまるっきりわからない。 もちろん単語ぐらいはわかるのですけれども、なぜこんなに楽しそうに話しているのかという文脈は、まったく理解できなかったのです。
     その体験が文書を読んでいるときにふっと重なってどうして自分は全国の文書を読むことができるのだろうということ自体を不思議に思ったわけです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.022)


     片仮名の世界
     さしあたり現在残っている文書の世界だけに限定してみますと、平仮名片仮名片仮名まじりの文書が出てくるのは、だいたい十世紀ぐらいからです。 それが、だいたい十三世紀後半ごろから、文書全体の二〇%ぐらいが平仮名、片仮名まじりの文書で占められるようになってきます。 南北朝期はそう変わりないのですが、室町時代−−十五世紀になりますと、このパーセンテージは俄然はね上がり、50%から六〇〜七〇%ぐらいまで仮名まじりの文書で占められるという状態になってきます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.024〜025)


     これは現在まで伝わっている文書についての数字で、こういう文書は意識的に保存され伝来した文書ですが、そうでなくて、「紙背文書」といって本来は破棄されてしまうはずの文書が、たまたまその文書の裏を、ほかの用途に使ったために残っている場合があります。 その場合をみますと、仮名まじりの文書の比率はいまあげた数字よりもはるかに高いのです。 ですから、十三世紀後半以降、仮名は非常に広く用いられたといってよいと思います
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.025)


     ところが、このような仮名まじりの文書の数の増加は、主として平仮名まじりの文書の増加であって、片仮名まじりの文書は、一貫して現在残っている文書のなかの一%から二%ぐらいしか見られないのです。 室町時代以降になるとその傾向がさらにはっきりしてきて、江戸時代の地方(じかた)文書、たとえば二万点にもおよぶ時国家の文書を見ても一点もありません。 片仮名のなどの助詞が普通の文書に用いられていますが、漢字と片仮名だけ、あるいは片仮名のみで書かれた、中世にはときどき見られる文書も、まったく見当たらないのです。 これによって明らかなように、文字の普及はもっぱら平仮名の普及という形で進行していったことは明らかです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.025)


     それでは、このような少数派の片仮名は、どういう用途で文書に使われているかということですが、基本的には、口語で語られることばを表現する場合に使われていたといえます。 しかも口語で語られることばが文書にされる場合は、中世前期ではしばしば神仏とかかわりを持つ場合が多いのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.025〜026)


     たとえば神に何事かを誓う起請文(きしょうもん)、告文(こうもん)、あるいは神に願いごとをする願文(がんもん)、あるいは逆に神の語る託宣を書いた託宣記、あるいは夢を見たときすぐにそれを書き記す夢記などのように、神仏とかかわりを持ち、しかも口語で語られたことにかかわる場合に、片仮名が顕著に使われていることがはっきりいえると思います
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.026〜027)


     また裁判のとき、漢字に片仮名かなりまじえた文体で書かれることが多い。 これを宣命書(せんみょうがき)といいますが、被告の白状を記した白状記にもこうした片仮名まじりの宣命書の文書が使われることが多いのです。 それから非常にはっきりしているのは、落書(らくしょ)あるいは落書起請(らくしょきしょう)で、これはほとんどが片仮名で書かれています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.027)


     落書は落し書きですが、“落す”という行為によって、人の手から落されたものは、勝俣鎮夫さんによれば人のものではなくなる、神仏のものになってしまう。 ですから落された文書、落書は、人の力をこえた神仏の声の意味を持っているわけです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.027)


     この文書は言上状といわれていますから、本来、読み上げられた可能性もあると思うのですが、文書自体に書かれていることが、「ヲレラカコノムギ(麦)マカヌモノナラバ、ミミヲキリ、ハナヲソギ、カミキリテ、アマニナシテ、ナワホタシヲウチテ、サエナマント候ウテ」−−「ヲレカラ」は「おまえらが」ということだと思います−−のように地頭口頭でいったことをそのまま文字にしています片仮名の機能がここに鮮やかにみられるわけで、この言上状が片仮名で書かれた理由の一つは、ここに求めることができます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.028〜029)


     もうひとつ注意すべき点は、当時、「日記」といって、その日に起こったことをその場で、あるいはすぐあとで書き記した文書がかなり見られますが、これにも片仮名まじりの文書が非常に多いのです。 この阿弖河庄の百姓言上状も、おそらく正規の手続きで訴状を出したのではない。 なぜなら、鎌倉時代の正式の百姓言上状の多くは漢字で書かれているので、この場合は非常に異例なのです。 多分、この言上状は「日記」のように、ことのおこった直後に書かなくてはならなかった事情を、想定することができるのではないかと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.029)


     文書の世界の片仮名はこのような機能を持っていますが、文学の世界にそくしてみると、寺院関係に伝わった本に片仮名が多く用いられているようです。もともと片仮名は、寺院で経典を読み下すときの訓点(送り仮名)として使われはじめたといわれており、これはこのこととよく符合すると思います。築島裕さんは「坊主の片仮名好み」というようなことをいっておられますが、本来、平仮名で書かれた和歌も、僧侶が書くと片仮名になってしまうのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.029〜030)


     女性と平仮名

     そして最初の問題にもからみますが、こうした女流の文学が生まれたのは十四世紀までなのです。 室町時代以降、女性の日記はありますが、江戸時代までふくめて女性の文学といえるものは、おそらくないのではないかと思います。 これが最初にお話した、十四世紀を境とした社会の転換と深いかかわりがあることは確実です
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.031〜032)


     それはともかく、平仮名はまず女性の文字として用いられ、それを男性が取り込むような形で普及していったわけです。男性は、平安・鎌倉時代はもちろん室町時代、さらに江戸時代まで、公的な世界では漢字を主として使っています
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.032)


     公家はもちろんですが、武家の場合でも、最初は多少それとはちがう匂いがあって、平仮名まじりの公文書が現われてもよいような状況があったと思いますけれども、基本的にはやはり、公的な文書は漢字で書くということが確定しています
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.032)


     ですから、鎌倉幕府の関東下知状(かんとうげじじょう)などの裁判の判決書がありますが、これはすべて漢字で、その中に書状などを証拠書類として引用する場合、書状や譲状(ゆずりじょう)は−−あとでふれますが−−平仮名が多いのですが、こういう平仮名の文書を、たいへん苦労して万葉仮名漢字に変えています裁判の判決書には平仮名がはいってはまずいという意識を、鎌倉幕府の当事者が持っていたことは、明らかといわなくてはなりません。男性の世界公的な世界で用いられる文書に漢字を使うということは、このようにずっとあとまで一貫しているのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.032)


     ですから男性が使いはじめる平仮名は、当然ながら私的な書状からはじまります。 そして平安時代の末ごろから、譲状平仮名が広く使われるようになってくるのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.032)


     譲状は、財産を譲るときに作られる中世独特の文書で、江戸時代になると譲状はほとんど消えてしまいます。 まったくないわけではないのですが、ほとんど見られません。 なぜ譲状が書かれなくなるのかということも、じつはあまりはっきりとは解明されていないので、きちんと考えなくてはいけないのですが、中世に広く作られた譲状は、平仮名が非常に多いのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.033)


     なぜ譲状が平仮名で書かれたかということも、よくわかっていないのですが、推論をしてみると、譲状は自筆が重んじられるということがひとつあると思います。 これは文書の普及度とも関係することですが、譲状を多く書いた侍クラスの人たちは、鎌倉時代には平仮名は確実に書けるようになっていますので、おのずと平仮名で書かれたという考え方がひとつありうると思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.033)


     それから当時、譲状が必要だったのは、ある財産を譲与した際、当事者の関係だけでは譲与は成り立たないわけで、いまのように登記によって公的な機関が認知してくれるのでもありません。 当事者周辺の、ある範囲の社会が認知してくれなくては譲与の行為は成立しない。 とすると、その範囲の人たちが譲状を読み、理解できなくては、文書を書いた意味がないことになります
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.033)


     ところが南北朝をこえて室町時代になりますと、文書はきわめて数が多くなるのですが、鎌倉時代以前に比べると文字に品がなくなりますしかも、大変に読みづらくなる。 そのいちばんよい例は、広島県の福山市にある草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡という中世の町の遺跡、川底に町が沈んでしまったという有名な遺跡ですが、そこからたくさん出てきた木簡です。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.037)


     この木簡は、最近出た長屋王の邸宅跡の木簡のように立派なものではなくて、木を削ったものに走り書きがしてあるものです。 少し前まで魚屋さんで、魚の値段を経木(きょうぎ)などに書いていましたが、あのようなものをお考えいただければよい。 ちょっとした取引のときに、そうした木片にサッと書いたと思われるものが多いのですが、これが読めないんです。 じつに読みにくい文字にたいする社会の感覚が、鎌倉時代とは大きく変わってきたのではないかと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.037〜038)


     鎌倉時代までの人びとは、文字にたいしてある畏敬の感情をもっていたと思うので、それが文字そのものの美しさにつながっていたのだと考えられますが、そうした意識はなお生きていたとしても、文字を使う人にとって、それはきわめて実用的なものになってきた。 そこにこうした変化がおこったのだといえると思いますが、村や町ができていくことと、このような文字の普及、その実用化とは深いかかわりがある。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.038)


     文字の普及と国家

     こういう新しい国家ができたということは、各地域の人たちにとってみれば、大変大きなことだったと思うのです。 ある意味でこの国家は、都という遠いところにできた、「聖なる世界」とうけとられたのではないでしょうか。 いずれにせよ、きらきらした文明の窓口だったわけで、そういう世界と自分がなんらかの形でつながりを持つ、それを媒介するものが文字だったということになるのです。 それは役人になるための試験勉強に、漢字の手習いをした跡が木簡に出てくることからもよくわかります
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.040〜041)


     東野治之さんが『木簡の語る日本の古代』(岩波新書)で、大変興味深くこのことを書いておられますけれども、こういう木簡平城宮跡から出てくる。 二字、三字の同じ字をなんべんも書いているのです。 この二字、三字から東野さんがその書物まで当てておられるので大変感銘をうけましたが、『文選(もんぜん)』という、役人になるときの試験問題にもっともよく出る中国の古典を、一生懸命手習いしているのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.041)


     しかもこういう木簡は出羽の秋田城からも出てきたのです。 都の近辺でしたら当然ともいえますが、律令国家の北限の拠点である秋田城からそういう木簡が出たということは、かなり注意すべきことだと思います。 この国家はその支配下にはいった地域について、戸籍を作りますが、その字を書いた人は、郡司あるいは里長(郷長(ごうちょう))だと思います。 そうだとすると、この国家の支配下にはいった全域に、ともあれ文字を使える人が広くでてきたことになります
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.041)


     しかも戸籍の字がじつにきれいなのですね。 正倉院にある戸籍の字を見ると、美術品として充分に観賞にたえられる字を、当時そうした人びとが書いているということに驚かされるのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.041)


     さきほど、文字にたいする人の姿勢の問題にふれましたけれども、この時代の人が、文字にたいして非常に真摯な姿勢を持っており、文字をきわめて大切にしていたことは、この字によって、疑いないことだと思います。最澄の字は、そういう字を土台にした、じつに生真面目きれいな字だと思いますけれども、日本列島の社会の、文字にたいする対し方の出発点がここにあるということができます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.041〜042)


     たとえば明治になると、とたんに片仮名がふえはじめる。法律軍隊の用語には、片仮名がもっぱら用いられますし、初等教育にも片仮名が最初に教えられるようになります。 しかし一般庶民の、日常の世界では平仮名が支配的で、片仮名まじりで全部を書いた文学もないわけではないでしょうけれども、ほとんどお目にかかったことはない。 むしろ学者、といっても漢学者の系統を引いた学者が片仮名まじりの論文を書いていると思いますが、しかしまもなく、それもほとんどなくなって平仮名まじりになっています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.046)


     これは江戸時代以来のことで、やはり文学は平仮名まじりの文体で、儒学者片仮名を使っています。 そうした状況の中で、なぜ軍隊と法律に片仮名が使われたのか。 これはまだ解決されていない問題だと思います。多分明治国家の本質にもふれる問題がそこにあると予想されます。 さらに戦後になって平仮名を先に初等教育で教えはじめたことにしても、こうした文字の歴史をどこまで充分に考えて行われたかについては疑問が残るので、教育史の方にぜひうかがってみたいものと思っています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第一章 文字について》P.046〜047)


     宋からの銭の流入
     前の章では、文字と社会とのかかわりが、ほぼ十四世紀を境にしてかなり変わってくるのではないかということをお話しましたが、このこととも深いところでかかわりのあることだと思うのですが、十三世紀の後半から十四世紀にかけて、日本の社会に、金属貨幣がはじめて本格的に流通しはじめます。 日本で金属貨幣が鋳造されるのは八世紀はじめ、和同開珎といわれる銅銭、銀銭がつくられたのが最初で、それ以来、いわゆる皇朝十二銭という貨幣が、十世紀なかごろまでつくられます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.049)


     この貨幣の性格についても、いろいろな意味で考えなくてはならない問題はあるのです。 中国の制度の受容にともなって鋳造されたという側面が強くて、調・庸などの貢納に用いられていますが、実質的に社会の中に貨幣が流通したのは、ほぼ畿内にかぎられており、全国的には流通しなかったといわれています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.049〜050)


     富の象徴

     これまでこの埋蔵銭については、戦乱の時代だから銭を埋めたのではないかといわれてきました。 たしかに第二のピークにはそのことも考えられますが、十三世紀後半から十四世紀にかけての埋蔵金のピークは、富の蓄蔵手段として、銭が大きな意味をもってきたことのあらわれではないか松延さんは考えておられます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.053〜054)


     私もこれには基本的に賛成です。 ただ、埋蔵物は、当時の考え方では、無主物になってしまうのです。 つまり、だれのものでもなくなってしまう、あるいは神仏のものになってしまうと考えられており、埋蔵銭についてもこのことを考慮しなくてはなりません。 そこにはまだ銭自体の呪術的な意味が残っていたとも考えられますし、戦国期以降の埋蔵銭とは、やや異なる意味を考える必要があるとは思いますが、ともかく、銭が富の蓄蔵手段になってきたことは、ほぼ確実だと考えていいのではないかと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.054)


     米や絹とちがい使用価値のなかった銭−−金属貨幣が、富の象徴になりはじめてきたということは、富のイメージの大きな変化で、銭に対する社会の対応の仕方がこの時期に大きく変わりつつある事を、これはよく示しているのではないかと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.054)


     『徒然草』に、大福長者といわれた金持ちが、銭を、「君のごとく神のごとくおそれとうとみて、従え用いる事なく」といったという話があります。 つまり、銭を奴隷のように勝手に使うのではなくて、「君」か神かのように怖れ尊んで使えということですが、いろいろな欲望をおさえて、ひたむきに銭を蓄蔵することを求める。 そのようにして銭を蓄蔵することこそ、「徳」がある−−つまり「有徳」であるというようになっているのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.054〜055)


     ここに、銭そのものに対する社会のとらえ方の変化がよく現われていると思うのです。中村直勝さんはこれを「拝金主義」といわれましたが、たしかにそういう状況が十三世紀後半から十四世紀にあらわれてきます。 そして十五世紀になると、支払交換手段として、広く流通し機能するようになってくるのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.055)


     このように銭が貨幣として本格的に機能しはじめたことは、いろいろな意味をもっています。 前章で、文字の普及によって社会の均質化が進んだと申しましたが、北海道沖縄をのぞく日本列島に、丸に四角の穴をあけた銭が流通するようになったことが、日本の社会の均質化の進行にひとつの意味をもっていたことは間違いないと思います。 こうした社会の変化が、沖縄と北海道をのぞく日本列島の社会に、「民族」が形成されていくうえでの画期になっていることはたしかだと思うのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.055)


     どうしてモノが商品となるか

     この問題について、勝俣鎮夫さんが非常におもしろいことをいっておられます。モノがモノとして相互に交換されるためには、特定の条件をそなえた場が必要なので、その場が市場である。 市場においてはじめて、モノとモノとは贈与互酬の関係から切り離されて交易をされることになるのではないか。 市場は、その意味では、日常の世界での関係の切れた、私流にいえば「無縁」場として、古くから設定されてきたのではないか、と勝俣さんはいっておられます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.057)


     たとえば虹が立つと、かならずそこに市を立てなくてはならないという慣習が古くからありました。 これは平安時代の貴族の記録にも出てきますし、室町時代にもまだその慣習の名残りが残っているのです。 たとえば藤原道長の邸宅のなかで虹が立ったので、そこに市を立てて交易を行っています。 虹が立った場所など本当はわからないはずですけれども、ともかくそのようにしなければならなかったのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.057)


     どうやって利息をとったか
     金融についても同じような問題があります。 モノを貸して利息を取るということがいったいどうしてできたのかということは、考えてみると大変不思議なことです。
     世界的に見た場合、どうなのかは知りませんが、日本の社会の場合、金融の起源を古くさかのぼってみますと、出挙(すいこ)に帰着します。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.060)


     出挙は、稲作と結びついており、最初に穫れた初穂は神に捧げられますが、それは神聖な蔵に貯蔵される。日本列島の社会では、それを管理したのは共同体の首長だと思いますが、この蔵の初穂は、次の年、神聖な種籾として農民に貸し出される。 収穫期が来ると、農民は蔵から借りた種籾に、若干の神へのお礼の利稲(りとう)(利息の稲)をつけて蔵に戻す。 この循環が出挙の基本的な原理だと思うのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.060)


     神仏、天皇の直属民

     このような神人供御人寄人のような神仏、天皇の直属民は、しばしば自分たちを「神奴(しんぬ)」、「菩薩の奴婢」、「寺奴(じぬ)」などと表現することがありましたので、これまでの歴史家は、これらの神人・供御人を奴隷的な、非常に身分の低い人びとと考えがちでした。 ところがよく調べてみますと、供御人・神人などとよばれた人たちが、当時の制度の中では、将軍の家臣である御家人と同じクラスの人である場合がしばしば見られるのです。 ですから社会的に見ますと、神人、供御人は侍に準ずる立場に立っていたといってよいと思うのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.065)


     これまでの歴史学では、このような人たちは世界史的にみても、まだきちんと位置づけられていないのですが、神仏の直属民聖なるものの奴隷は、日本だけでなくて、いわゆる「神聖王」ともいうべき存在のあった社会、たとえばインカ帝国のような社会では、神の奴婢太陽神の奴婢、あるいはインカの直属の奴隷がいて、女性の場合にはアクリャといわれ、男の場合にはヤナコーナとよばれていたのだそうです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.065)


     鎌倉新仏教の役割

     禅宗の場合も同様で、これまで禅宗については、その宗教者としての思想がもっぱら注目されていましたが、じつは世俗的な分野で、禅宗はさまざまな役割をはたしておりました。勧進聖として「唐船」に乗って中国との貿易に出かけた人びとのなかにも、律僧と同じく禅僧のいたことが知られておりますし、これまでよく知られている水墨画のような絵画茶道築庭(庭園づくり)などだけでなく、能楽にもつながるような新たな芸能を中国から持ち帰り、伝えた禅僧もいたようであります。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.076)


     「放下(ほうか)」といわれた芸能民として、禅僧が活動してることも注意しなくてはなりませんが、さらに室町時代になりますと、「荘主(しょうず)」といわれる荘園の請負人として、禅僧が非常に広く活動しています。 これは荘園の経営に関する正確な計算、決算に、禅僧がすぐれた力を持っていたこととかかわりがあるのではないかと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第二章 貨幣と商業・金融》P.076)


     古代の差別

     また、絵画史料を使って非人のあり方を具体的に明らかにしようという仕事も、黒田日出男さん、河田光夫さん、保立道久さんなどによって推進されています。 さらに中世における差別の最大の原因になっているケガレについても、民俗学の宮田登さん、歴史学の横井清さん、山本幸司さんなどのすぐれた研究が現われています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.081〜082)


     さらに非人の救済、非人集団に対するさまざまな宗教者のかかわりについて、律宗、禅宗、時宗をはじめ、新しい研究がさかんに行われています。 こうした研究の発展のなかで、非人の社会的地位をどのように考えるかについて、意見もいろいろに分かれてきました。 その中でもっとも代表的な説は、非人を「身分外の身分」とする黒田俊雄さんの説で、非人は本来的に社会から完全に疎外された存在であるという考え方です。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.082)


     大山喬平さんは、百姓と基本的には同じ身分だと考えておられますが、私は、非人は一般の平民百姓や不自由民である下人とも異なる、前章でもお話しした、神仏直属神人(じにん)、寄人(よりうど)と同じ身分と考えることが出来るので、ある種の職能民の一面ももっていると思っておりますが、これは学会のなかではまだ市民権を得ていない考え方であることを、最初に御承知おきいただいたほうがよいかと思います
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.082)


     縄文時代の零歳の平均余命十七歳といわれており、大変に過酷な状態に人びとは置かれていました。 ネアンデルタール人にもそうしたことがあるようですが、縄文人の骨のなかに、明瞭に身体障害者と見られる人の骨、たとえば兎唇(みつくち)とか、足に障害を受けた人の骨が残っているとのことで、ある考古学者この時期には、人間が生きるということ自体非常に大変な時期であり、人間そのものが非常に大切だったので、そうした差別はなかったのではないかと考えています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.082〜083)


     弥生時代以降の日本の社会では、天津罪(あまつつみ)、国津罪などといわれて、母子相姦獣姦、ある種の病気、さらには農業を妨げる行為とされ、罪をケガレと考えた痕跡は十分にあります。 しかし、七世紀後半に律令国家が成立しますと、この国家はすべての人を戸籍に記載する原則を、少くともその当初は熱心にまもろうとしていますので、たとえば廃人といってもよいような重い病気、身体障害を持つ人は廃疾、非常に重い病気の人は篤疾として、戸籍に他の人びとと一緒に記載しています
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.083)


     そして、そういう人たちには課役は賦課しないということになっておりますし、介護者を決めて、そういう人については介護せよという原則になっているのです。 実態はどうだったかはよくわかりませんが、建前で見るかぎり、後のように、ハンセン病に罹った人、身体障害者を共同体から排除するような動向は、考えられません
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.083)


     また、浮浪人逃亡して浮浪してしまう人たちに対しても、この時期の国家は熱心にこれを追及して、つかまえた上で戸籍にもれなく載せようとしています。 ですからそうした共同体から離脱した人の存在を、この国家は制度として認めない立場にあったということになります。 このように、少くとも制度上、さきほどのような差別はありえないことになっており、文献でも確認できないのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.083〜084)


     童名を名乗る人たち
     また八瀬童子(やせどうじ)という、貴人の輿や柩をかつぐ人たちが京都の北に住んでいました。かつて大正天皇の柩はだれがかつぐかが大問題になったことがあります。 海軍がかつぐか、陸軍がかつぐかで大騒ぎになった結果、京都から八瀬童子が来てやったのですが、みな年を取っているし、天皇の柩はとても重いので、あわや落としそうになってひやひやしたなどという話が伝えられていますし、最近の昭和天皇の葬式のときもその葬列に加わっています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.112)


     聖別から卑賤視へ

     さて、また「童名(わらわな)」の問題にもどりますが、「」をつけた名前は、いろいろなものに付けられています。のような動物にも「丸」が付けられているし、にも、「胴丸(どうまる)」などということばもありますけれども、よく「丸」をつけた名前が見られます。 また篳篥(ひちりき)のような楽器も、何々丸という名前を持っているし、にも「丸」がつけられます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.114〜115)


     むしろいまあげた」をつけるものは、みないわば聖俗の境界にあるものであることに注意する必要がある。 鷹や犬などはまさしくそういってよい動物だと思いますし、楽器も同様です。 当時の音の世界は、神仏との関係でとらえられており、神仏を呼び出し、また神仏を喜ばせるために用いられているわけで、楽器はまさしく神仏の世界と俗界を媒介するものだと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.115)


     実際、平安時代末に、ある童が「悪人」を指名すると、上皇が本気で検非違使庁に命じて、指名された人を捕まえさせるなどということをやっている。 こういうことが記録に残っているところからみて、のちに「七歳までは神のうち」などといわれるのも、その流れをくんでいると思いますが、子どものいうことは神の意思を体現していると考えられていた時期があったのではないかと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.116)


     『塵袋(ちりぶくろ)』という鎌倉後期の古辞書のなかに、「キヨメヲエタト云フ」のはなぜかという問いに対して、「エタ」は「餌取」のなまったものだとのべていますが、その最後に、「イキ物ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」と書かれています。 非人や河原者を「穢れ多い」悪人であるとする差別意識、これを卑賤視する方向での差別が、このころから社会の中に現われてきたことを、これはよく物語っています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.117〜118)


     差別の進行

     そしてそれがやがては、悪党童形非人の社会的な地位の大きな変動をよびおこすことになりますが、これはさらに問題を広げてみますと、商人手工業者芸能民の問題、さらに遊女の問題とも切り離しがたく結びついた問題をふくんでおります。  遊女はこのころ、非人と同じようにしだいに賤視される方向に向かっていくのですが、『法然上人絵伝』に描かれているように、遊女は法然に救いを求め、法然はそれに応えているわけで、ここにも同じような問題がある。 やはりセックス問題をめぐる、非常に鋭い思想的な対立があったのだと思うのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.136)


     東日本と西日本の相異

     これまでお話ししてきたのは、じつは、本州の西部、四国、九州、つまり西日本を中心とした話で、北海道をのぞく本州東部、東日本は、文献史料が全体として西日本よりもはるかに少ないのですが、残っている史料を見るかぎり、「非人」ということばは東日本の史料にはほとんど出てきません。  ただ、鎌倉は例外で、鶴岡八幡宮に属した犬神人もいますし、乞食・非人のいたこともわかっていますが、それをのぞくと、越後国奥山荘に「非人所」ということばが一例でてくるだけなのです。 現在でも西日本に比べると、東日本の被差別部落は非常に少ないのですが、このようなちがいはどこからでてくるのかが、大きな問題として残っています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.139)


     それから馬のような動物に対する感覚も、東と西ではかなりちがっているのではないかと思うのです。 東日本には牧が非常に発達していますので、野獣にちかい馬に接している。 中部九州もよく似ていると思いますので、これを単純に東と西とはいえないと思いますけれども、そういうところでは馬肉馬さしを食べる習慣が現在でもあります。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.140)


     沖縄には、本州、四国、九州でみらるような被差別部落はないといわれています。 「アンニヤ」といわれて、差別される芸能民の集団があったといわれていますし、職能民に対する扱いにも、差別といわれるようなことがなかったわけではないようですが、被差別部落とはっきりいえるような集落は、今後さらに精密に考える必要はあると思いますけれども、一応沖縄にはなかったといわれております。 もちろんアイヌの社会にもそうした部落はありません
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第三章 畏怖と賤視》P.141)


     ルイス・フロイスの書物から

     ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書いた、『日欧文化比較』という小さい書物があります。 『日欧文化比較』は岩波書店で出した大航海時代叢書にはいっておりますが、それとまったく同じものを、松田穀一さんが中公新書として『フロイスの日本覚書』という題名で、最近出版していらっしゃいます。 フロイスは十六世紀の中ごろ、一五六二年に日本に来て、一五九七年に世を去るまで、三十五年間、日本で生活をしました。 その生活のなかで、日本の習俗とヨーロッパの習俗との間に非常なちがいがあることをつぶさに見て、そのちがいを項目別に書き上げたものが、この『日欧文化比較』−−『日本覚書』という本なのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.144)


     その第二章に「女性とその風貌、風習について」という一節があります。 フロイス自身もびっくりしたでしょうが、われわれ自身もこれを読むと、ちょっとドキっとするようなことが、そこにいくつかあげられております
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.144)


     たとえば、「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。 それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる」。 「ヨーロッパでは財産は夫婦のあいだで共有である。 ところが日本では各人が自分の分を所有している。 ときには妻が夫に高利で貸し付ける」。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.144)


     さらにまた、「ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。 日本では意のままにいつでも離別する。 妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。 日本ではしばしば妻が夫を離別する」というように、これまでの常識から考えると、これは本当かな、と思うようなことをのべているわけです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.145)


     さらに、「日本では娘たちは、両親に断りもしないで、一日でも数日でもひとりで好きなところへ出掛ける。 日本の女性は夫に知らせず、好きなところへ行く自由を持っている」。 「日本では、堕胎はきわめてふつうのことで、二十回も堕した女性がある。 日本の女性は、赤子を育てていくことができないと、みんなのどの上に足を乗せて殺してしまう」。 「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる」。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.145)


     これを一読したとき、これはフロイスの偏見ではないかという印象を私自身も持ちました。 これは相当に史料批判がいるのではないかと思いました。 全体として、日本の女性のあり方に批判的な角度を、たしかにフロイス自身持っていると思います。 しかし一方、前にも文字のところでふれましたけれども、「ヨーロッパでは女性は文字を書かないけれども、日本の高貴な女性はそれを知らなければ価値が下がると考えているということもあげていますので、すべてが偏見であるとは決していえないのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.145)


     ただ幕府の法制のなかでは、離縁状三くだり半−−実際に三行半で書かれたものもみられますが−−は、夫が妻に与えるかたちのものが法的に認められるので、妻の書いた離縁状はまず絶対にでてこないわけです。 ですから文書だけを見ていると、夫が離婚の専権を握っているかのごとく見えるのですが、実際は、むしろ夫は離縁状を書く義務があるといったほうがよい。 それを書く権利があったというより、義務があったといったほうがよいようです。それがないと夫も妻も再婚ができないわけです
     もちろん夫だけが離縁状を書くという形、建前が行われているところに、日本の社会の大きな問題があることは間違いないと思うのですが、日本の社会の実態は、法的な制度が示している形とは、だいぶちがうということを、われわれは十分に考えておく必要があると思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.147)


     男女の性のあり方

     それから宮本常一さんの、『忘れられた日本人』『家郷(かきょう)の訓(おしえ)』(いずれも岩波文庫)、あるいは赤松啓介さんの『非常民の民俗文化』(明石書店)などに描かれている第二次大戦前までの各地の民俗の実態を見ますと、少なくとも、西日本ではいわゆる「夜這い」の習俗が、各地に生きていたことは間違いない。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.148〜149)


     それから歌垣の習俗がかなり最近まで残っています。お祭りのときや仏教の大衆的な法会のとき、あるいは神社・仏閣にお籠りをしたときなどに、いわゆる「歌垣」と同じように、男女のフリーなセックスが行われるという習俗のあったことは、宮本常一さんが『忘れられた日本人』で書いておられます。 対馬の観音堂の祭りや、河内の太子堂の縁日のときは男女の自由な交渉が公然と行われたというのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.149)


     神社への参籠の場所も同じだったのです。 寺院や神社にお籠りをしている状況は、絵巻物にときどき描かれていますが、仏前や神前で男女が入り混じって寝ているわけです。 絵巻物は絵ですから、明るく見えるように描かれていますけれども、実際は真っ暗だったにちがいありません。 大きな木を置いて、それを枕にして男女がごろ寝をしているという場面も、絵巻物のなかに見つけることができます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.150)


     また中世、道を歩く女性に対して「女捕(めと)り」、「辻捕り」が行われることがありました。 これはある場合にはレイプになるわけですから、少なくともたてまえの上では、法令によってきびしく禁じられています。『貞永式目』でも禁止されていますが、よく見るとあまり罪が重くないのです。 しかも「法師については斟酌あるべし」という不思議な文言がはいっています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.153)


     なぜ「女捕り」について、法師の場合には斟酌されるのだろうかということについて笠松宏至さんは、僧侶のなかでも地位の低い法師は、ふだん禁欲しなくてはならないので、「女捕り」の罪については斟酌を加えることになっているのではないかと推測しています。『御伽草子』「ものぐさ太郎」の話の中に、供も連れず、輿にも乗らないでひとりで歩いている女性を女捕ることは、「天下の御許(おんゆる)し、つまりそういう場合、女捕りは「天下公許」であるといわれているのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.153〜154)


     もちろん貧しく、生活苦があったゆえに、こういう行為が行われたのも事実ですが、さきほどのような状況を考えますと「未婚の母」が非常に多かったと推測されるわけで、ことの善悪は別として、当時の女性の現実に対するひとつの対処の仕方と考えることも十分可能だと思います。 それとともに「七歳までは神のうち」などといわれたことが逆転して、子どもは人間と考えられていなかったことも関係してくるかもしれません。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.155〜156)


     太良荘の女性たち

     やがて雲厳は、若狭国の御家人になります。 つまり鎌倉殿である頼朝の家臣になるわけです。西国の御家人は、その国で御家人になりうるような人たちについて、守護が「交名(きょうみょう)」という名簿(めいぼ)を作って、これを幕府に送り、それを将軍が認めることによって御家人になるというのが手続きでした。東国の御家人の場合は頼朝と直接に会って「名簿(みょうぶ)」を捧げて、主従の関係を結ぶのですが、若狭は西国ですから、御家人の交名が作られており、三十数人の名前があげられていますが、その中に雲厳も名前が記されています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.158)


     女性の社会的活動

     このように女性が家、屋地となぜ深いかかわりを持つようになっているのかについて、最近、保立道久さんが『中世の愛と従属』(平凡社刊)という著書のなかで、大変おもしろい指摘をされています。
     保立さんは中世の家屋のなかで塗籠(ぬりごめ)という場所−−のちには納戸といわれた場所が、絵巻物の中でどのように描かれているかを詳しく調べられて、そこが夫婦の寝室であると同時に、大事な財物を収納する場所であったことを確認されました。ここはいわば、家のなかでもっとも中心的な「聖なる場」だったのですが、まさしく女性こそがその管理者であったと、保立さんは指摘しています。
     女性を「家女」と書くことが多く史料に見られますし、「家刀自(いえとじ)」などと女性がよばれた理由はここにあるのだと思います。 実際、鎌倉時代から南北朝期まで、借上(かしあげ)土倉(どそう)といわれた金融業者に、女性がかなり数多く現れてきますが、これも間違いなくそのことと関連していると思います。『病草紙(やまいのそうし)』には、「七条わたりにすむ、いゑとみ食ゆたかなる」女性の借上が詞書に出てきますが、これは太りすぎてまわりから助けてもらわないと歩くことができないような女性の金融業者の姿として、絵には描かれています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.164)


     女性職能集団の出現

     鎌倉初期の仁和寺御室(にんなじおむろ)の『右記』という記録がありますが、そのなかに、遊女白拍子公庭、つまり朝廷に属する物であると、はっきり書いてあります。 これによっても明らかなように、遊女の集団は、たぶん内教坊雅楽寮のような官庁に属して、別当などに統轄されており、を組んで、朝廷の儀式に奉仕をしていたことは、貴族などの日記によってみても間違いないと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.168)


     白拍子傀儡(くぐつ)の場合にしても同様で、鎌倉前期に白拍子奉行人という役職のあったことが明らかにされております。 このように遊女、白拍子、傀儡は神人、寄人と同様、天皇や神に直属する女性職能民だといってよいので、社会的地位も決して低くなかったと思います。 鎌倉時代までの遊女、白拍子、傀儡が、天皇や貴族の子どもを生んだり、勅撰和歌集にその和歌が採用されたりしていることは、そのことをよく証明していると思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.168)


     しかし、遊女のみならず、平安時代末期以後、供御人や神人となって、商工業や芸能などの非農業的な生業にたずさわる女性は、かなり多く史料に見ることができます。 そうした女性の職能民は八世紀までさかのぼれるので、『日本霊異記』のなかには、すでに、花を売る女性仏の物である銭を出挙−−人に貸して非常に豊かになった女性、あるいは、貸すときには小さな升で、取るときには大きな升取って、大儲けをして、最後には仏罰を受けた女性など、多様な女性たちが姿を現しています。 さらに平安後期には、炭を売る大原女なども文献にでてくるのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.168)


     このように日本の社会には女性の商人が非常に多いといってよいと思います。 たとえば魚売りの商人は、ほぼ例外なしに女性だといってよいと思います。 京都の六角町で、すでに鎌倉時代のはじめのころ、店棚を持って魚を売っていた琵琶湖の湖の民出身の商人−−この人びとは供御人になっていますが−−は すべて女性でした。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.169)


     また桂川の鵜飼で、桂供御人になった人たちのうち女性は、桂女という鮎売りの商人になっています。 それからを売る大原女も同様ですし、京都の北の小野山にも炭焼供御人になっている女性がいちことがわかります。こんにゃくをはじめいろいろな野菜類精進物を売る女性の供御人もいますし、祇園社に所属して、綿を売る神人小袖を売る神人にも女性が多く見られます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.169)


     いまあげてきましたのは、南北朝ごろまでの神人、供御人の例ですが、供御人、神人は、前にお話ししたように神仏・天皇に直属する聖別された集団で、男女を問わず交通税を免除されて、広域的に遍歴して交易にたずさわる人びとです。 そのなかに女性が非常に数多くいるわけで、このことは、さきほど触れた女性自体の聖なる特質と決して無関係ではないと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.169)


     実際、桂女は独特な被物(かぶりもの)をしており、服装の上でもこれらの人びとは一般の女性とはちがうことを明示して、遍歴していますが、これはさきほどふれた女性が広く旅をしたこととも結びついていると思われます。 いずれにせよ遍歴する女性の商人は、鎌倉、南北朝時代までは、これまで考えられていたよりもはるかに大きな比重をもって社会で活動していたといってよいと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.169〜170)


     穢れと女性

     しかし戦国時代にはいって間もなく、十五世紀後半につくられたといわれている「七十一番歌合」のなかには、まだまだ女性の職能民の姿がたくさん出てきます。 それはいささか驚くほどで、たくさんの女性の物売り、手工業者の姿が描かれておりますけれども、桃山時代に多く描かれた「洛中洛外図」、さらに江戸時代前期の職人尽まで下って女性の姿をたどってみますと、外に表れてくる女性の職人の姿は、時代とともに減っていきます。  たとえば扇売りは、伝統的に女性の職能だったようで、「七十一番歌合」ではもちろん、「洛中洛外図」でも店棚で扇を売っているのが見られるのです。 ところが江戸時代にはいるとこれも男性にとって代られることになっています。 この分野、商工業関係では女性が表の世界公的な立場で働くことができたのですが、十六、七世紀になるとこの世界ですら女性は明らかに、裏の世界に入らざるを得なくなってしまったといえると思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第四章 女性をめぐって》P.178)


     「日本」という国号の歴史

     つまり、江戸時代、佐竹を苗字とする大名が官位を天皇からあたえられる場合、まったくの形式だけですけれども、官職の任命状である口宣案(くぜんあん)や、位階を与えられるときの位記には、かならず源朝臣某(みなもとのあそんなにがし)という、氏名と姓が書かれるのです。 これは非常に根強くあとあとまで行われております。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.190)


     現在、ルーツ探しがさかんですが、現存する系図を史料批判せずに用いると、すべて、天皇ないし天皇の祖先神に帰着してしまいます。 系図それ自体にそういう構造がうめこまれているので、知らず知らずに日本人はみな天皇の子孫ということになってしまうのです。 この構造ができたのが、律令国家の確立したとき、天皇号が定着したときだったことを十分認識しておく必要があります。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.190)


     租税の制度

     こうした未開と文明との結びつきは、律令制の租税制度そのものに見出すことができます。 よく御存知のとおり、この国家は一般の平民から、租・庸・調雑徭等々を取り立ててその体制を維持しています。 これまでの研究によりますと、」は初穂の貢納で都には運ばれず、諸国の倉、郡の倉に貯蔵されます。 おそらく、もともとはそれが元本となって、前の章でお話しした出挙という形で一般の人民に貸し出され、秋に利稲をとります。正税といわれるこの利稲が、諸国−−現代流にいえば地方財政の財源になります
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.195)


     これは農耕、水稲耕作の循環にともなう習俗を制度化したもので、日本列島の社会にはそういう形で「租税」が根づいていくのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.195)


     」は、もともと労役で、まもなく「調」と同じようになりますが調」は、土産、諸国の特産物です。 「みつぎ」といわれて、その土地の特産物を、首長のところに運んでいく服属儀礼が制度化されたものといわれています。 ですから調は絹や布、塩や鉄などの非常に多様な産物で、米はほとんど見られません。 これが本来の制度では百姓が食糧自弁で、まで運んでいくことになっています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.195〜196)


     これはこうした調の負担としての特質にかかわることだと思いますが、これが国家の中央財政政府の運営費になります。 このほかに、共同体を維持するための労働としての雑徭軍役などが制度化されたのですが、「調」にせよ「租」にせよ、いずれも、社会自体の中で行われていた慣習を、公、国家に対する奉仕として制度化したと考えられます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.196)


     これらの負担はのちに中世の年貢公事(くじ)、夫役(ぶやく)になり、近世の年貢小物成(こものなり)、課役となって、だんだんに変化していきますが、平民の生活の中に生きている習慣を、公への負担として制度化したという性格は、基本的には変わっていないということができます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.196)


     もともと「」ということばは、「オオヤケ」「大宅」であり、大きな家を意味しており、首長の家や倉をさす語だといわれますが、この「大宅」は首長個人の家ではなくて、共同体を代表する首長、その共同の施設の性格も持っていたと見られます。 「公家」は古代では天皇をさしていますが、やがて中世には、将軍が「公方(くぼう)」といわれ、さらに近世では幕府・大名が「公儀」とよばれるようになり、「公」自体の内容は変わっていきますが、これらの負担が「公」への奉仕と見られていたことは一貫しています
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.196)


     そうした形がはじめて制度化されたのが、律令制だったので、これは単純に強制力によってできたのではなく、一般平民の生活の中に生きている習俗を租税として制度化したもので、そこに平民自身の「自発性」も組織されたといわなくてはなりません。 もちろんそれが制度化され、強制力で裏付けられたことによって、非常に酷烈な収奪が行われる結果にはなっていきますが、日本列島の社会に対する最初の租税制度がこのような形で定着したことは、あとあとまで非常に大きな影響をあたえたといえます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.196〜197)


     こうした負担が、平民自身の生活の慣習の組織化である以上、そこから大きく逸脱する国家の徴税に対して、平民の強い抵抗がおこるのは当然で、その抵抗と平民の生活自体の変化の中で、租税制度も変化していくことになりますが、注意すべきことは、そうした平民たちが、年貢・租税を廃棄せよというスローガンを公然と掲げたことは、古代から近世にいたるまでほとんど見られないのです租税、年貢を減免せよ、軽減せよという運動は無数におこっていますが、年貢をすべて撤廃せよという運動は見られないのです
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.197)


     もちろん「公」が「公」としての役割を果さないかぎり、年貢を納める必要なし、という考え方は、平民の根底にあることは間違いないことですが、それが公然たる年貢の廃棄というところまではいかない。 これは、年貢が単なる私的な地代ではなく、公的な租税の意味を持っていたからだと思います。 現在の税金にいたるまで、日本の社会は、こうした租税制度に規制されつづけているといわざるをえません。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.197)


     このような「公」の観念、しかもそれが決して専制的な支配による強制のみによって押し付けられたものではなくて、平民の「自由」、「自発性」を背景において、律令制が組織されたことは、その後の日本の社会の「公」にたいする考え方に大きな影響をあたえていますし、その「公」の頂点につねになんらかの形で天皇が存在したということも、この最初の国家の成立の結果であるということを考えておく必要があると思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.197〜198)


     日本列島には複数の国家があった

     しかし、わずかな期間でしたが、将門がこの国家を樹立したことは、その後の歴史に決定的な意味を持ったといえます。 その崩壊後、東国はふたたび王朝の支配下にはいりますが、これ以後は、現地の勢力が自立的に請負って、都へ送るものを調達するような体制になっています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.205〜206)


     それとともに東北にも、このころから自立した権力が、安倍氏、藤原氏、清原氏、奥州藤原氏と継承されて生れてくる。これも国家と見る見方もありますが、やがて十二世紀末、鎌倉幕府が成立しますと、三河、信濃、越後以東の地域は鎌倉幕府の統治下にはいってしまいます。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.206)


     鎌倉幕府の評価については、学者の中でずいぶん考え方が分かれていて、これを一応自立した国家、中世国家のひとつの型として認める見方と、王朝−−京都の権力の出先機関として軍事的な部門を担当する、ひとつの権門にすぎないという見方とが対立しています。 だいたい東京出身の学者には前者の意見が強く、京都の学者は、後者という傾向があり、東北が西の味方をして、九州は東の味方をします
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.206)


     権威と権力

     ただ、注意しておきたいのは後醍醐以後の天皇家は、政事上の実権はほとんど失い、十四世紀末には「天皇職」を義満に奪われてしまいますが、ただ、まったく無抵抗だったのかというと、決してそうではないのです。 たとえば後円融という、後亀山という南朝の天皇と合体した後小松の一代前の天皇がいますが、この人が上皇の時に、天皇の足下では、権力の最後のとりでだった京都の施政権まで完全に幕府に握られてしまいます
     たとえば酒屋土倉に対する税金の賦課権を幕府が掌握したのもその現われなのですが、その過程で、後円融は異常な行動にでています。 自分の後宮の女房、上揩ェ、義満と通じたと疑って、殿上(てんじょう)で、女房の頭を刀の峰で殴りつけて、流血事件をおこすのです。 殿上で天皇が女官の頭を叩いて血を出させるようなことは前代未聞のことですから、大騒動になり、後円融はたいへん困って、丹波の山国荘にはいって切腹するといいだすのです。
     これは、後円融の特異な性格と結びつけられてはいますけれども、やはりこうした幕府の圧力に対する焦燥感からこういう行動がでてきたのだと思います。それ以後の戦国時代、さらには江戸時代の天皇も、まったくの無抵抗で幕府に唯々諾々と従っていたわけではないので、よく知られている後水尾だけでなく、これからもっと調べてみる必要があります。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.215〜216)


     大転換期

    …また、思いつくままにいいますと、百姓名前通称に広く律令官職名が浸透するのは江戸時代のことで、左衛門、右衛門、兵衛、右近、左近、左京、右京、太夫など、これは全部官職名から来ているのです。 ある人にこの話をしたら、「日本全国ガードマンだね」などといいましたけれども、鎌倉後期から、百姓の仮名(けみょう)通称に官職名が使われはじめ、江戸時代には全国的になります。 場合によっては四位、五位などと名のっている百姓もいます。この時期の百姓は実名は名のれなかったので仮名のことですが、この問題も「公意識」とどこかでかかわりがあるのではないかと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.218)


     それから、職能民の職能伝説には貴種流離伝説の形を持つものをふくめて、その起原を天皇に求めるものが多いのです鋳物師はその職能を近衛天皇に求めており、木地屋惟喬親王、あるいは被差別部落醍醐天皇、さらに遊女光孝天皇というように、天皇にかかわらせた職能伝説が広く広がっています。 これは、贄人、神賎から神人、供御人として天皇や神に直属してきた職能民の動向に実際の起原を持ち、それが伝説化しているのですが、この伝説を背景にして、江戸時代まで職能民は公家と何かの形でのつながりを実際に持ち続けています
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.218〜219)


     それは現代を歴史的な時代区分の中でどこに位置づけるかということですが、社会構成史的な次元での区分、古代・中世・近世。近代という区分の中で、現代を明治以降の近代の連続と考えるか、戦後に新しく出発した、近代社会とは異なる現代社会と位置づけるかによって、当然、現代に対する認識は大きく変わってくるわけです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.219)


     戦後歴史学の主流は、敗戦と新憲法に非常に大きな比重を与えており、どちらかといえば後者の見方が主流だと思うのですが、私は多少戦前を知っているせいかもしれませんが、現代は明治以降の近代社会のある一段階であり、現在はその、局面ととらえたほうがよいのではないかと思っています。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.219)


     古代にそくして考えますと、十世紀は非常に大きな変化の時期です。 このときはとくに外的な要因からおこったわけではないのですが、さきほどもふれたように、律令制はここで大きく変質するので、古代の終わりはやはり十二世紀ごろということになります。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.219〜220)


     中世は十六世紀までつづきますが、その間に南北朝動乱という時期がありますし、近世江戸時代を考えると、元禄・享保期が大きな境目になるのです。 敗戦は、近代社会のそうした節目にあたるのではないかという感じもしないわけではありません。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.220)


     社会構成体は、確立期発展期停滞期崩壊期があると思いますが、もはや現代は、近代社会の発展期ではないと思います。そういう認識の仕方がひとつの現代のとらえ方になると思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.220)


     もうひとつは、私流のいい方で文明史的、民族史的な次元での区分からの見方に立ちますと、現代は、まさしくその大転換期にさしかかっていると私は思うのです。 現代は権力の性格というより、むしろ権威のあり方を否応なしに変化させるような転換期にはいりこんでいるように思うのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.220)


     たとえば室町期、十四、五世紀にできた村や町のあり方が、今や崩壊といってもよいほどの大きな変化にさしかかりつつあることは疑いないと思いますし、人の意識の上にも大きな変化がおこりつつあります。病気のとらえ方、動物に対する接し方の変化などに見られるように、人間と自然とのかかわり方がいまや人類的な規模で変化しつつあることのあらわれが、日本の社会にもはっきりとおこっています。いちばんはじめにいいましたように、日本の社会はいま、十四世紀の転換以来の大転換の時期にさしかかっていると考えられるのです。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.220〜221)


     とすると、現代は社会構成史的にも、また民族史的、文明史的にも、大きな転換期にはいっていることになるので、天皇も否応なしにこの転換期に直面していることになります。 おそらくこの二つの転換期をこえる過程で、日本人の意志によって、天皇が消える条件は、そう遠からず生まれるといってよいと思います。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.221)


     しかしその時は、かならずや日本という国号自体をわれわれが再検討する時期となるに相違ありません。 それはいわば「日本」という国家そのものをわれわれが正面から問題にする時期になるのだと思います。ともあれこれだけの長い歴史を持つ天皇をどうするか、さらには「日本」をどうするのかについては、もちろん冷静かつ理性的に対処する必要があるので、いずれにせよその克服の仕方は、最良の仕方で達成する必要があると私は思います。 しかしこれこそ、若い人たちにとって、ほんとうにやりがいのある今後の課題といえるのではないでしょうか。
    (《日本の歴史をよみなおす(全)第五章 天皇と「日本」の国号》P.221)


    −−続・日本の歴史をよみなおす−−

     百姓は農民か
     日本の社会が、少なくとも江戸時代までは農業社会だったという常識は、非常に広く日本人の中にゆきわたっています。 たとえば高等学校の日本史の教科書をみますと、いちばん広く使われている山川出版社『詳説日本史』(一九九一年)では、江戸時代に入ってまもなくの項の冒頭で、「封建社会では農業が生産の中心で、農民は自給自足の生活をたてまえとしていた」と書いてあります。 東京書籍『新訂日本史』(一九九一年)も農民の生活の項の中で、「当時の農業は村を単位に自給自足でいとなまれることが多かった」と書いています。 その根拠には、当時の人口の圧倒的多数が農民であったという前提があるのですが、それを証明するものとして、ひとつの円グラフが二つの教科書には共通して引用されています。
     それは、秋田(久保田)藩の幕末近いころの嘉永二年(一八四九)の未分別人口構成を円グラフにしたもので、合計三七万二千人余の人口の中で、農民が七六・四%、町人が7・5%、武士が9・8%、神官・僧侶が一・九%、雑が四・二%となっています。 この円グラフで見るかぎり、幕末近いころでも秋田藩の人口の圧倒的多数が農民であるということは歴然としているかのごとく見えるわけです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.231〜232)


     しかし、素直にこのグラフを見ると、いったい秋田藩にはほんとうに、漁民や廻船人(かいせんにん)、山の民はいなかったのかという疑問がすぐにわいてきます。 そこで、ここにはなにかからくりがあるなと思って、グラフの典拠にされている関山直太郎さんの『近世日本の人口構造』(吉川弘文館)を買い求めて調べてみました。 関山さんの作成された表とこの円グラフのパーセンテージは一致していますが、農民七六・四%というところが関山さんの表では、「百姓七六・四%」となっています。 この円グラフが、百姓は農民であるという理解に基づいてつくられたことは疑いありません
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.233)


     「お百姓さん」といえば農民に決まっているじゃないかという理解は日本人に広くゆきわたっており、このグラフの作成者もその常識に基づいてこれをつくっているのです。 しかし、ほんとうに百姓は農民と同じ意味なのか、本来、「百姓」ということばには「農」の意味はないのではないかと問いなおしてみますと、こうした常識が意外に根拠のないことがわかってきます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.234)


     実際、百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民−−農業以外の生業に主としてたずさわる人びとをふくんでおり、そのことを考慮に入れてみると、これまでの常識とはまったく違った社会の実態が浮かび上がってきます
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.234)


     奥能登の時国家

     実際、江戸時代初期の、分立する前の時国家は二百人ぐらいの下人(げにん)を従えているのですが、下人は、これまでの学説ですと、奴隷、あるいは農奴ととらえられていた人びとなので、時国家はそういう隷属的な性格を持つ人びとを駆使して、何十町歩(ちょうぶ)という大きな田畑を経営している大手作り経営と考えられてきたのです。宮本常一さんは敗戦後まもなく時国家を調査なさっており、さすがに鋭くこの家の実態の一端をつく指摘をしておられますけれども、結局はやはり、これを中世のなごりをとどめた巨大な手作り経営と見ておられますし、学者によってはこれを、家父長制的な大農奴主経営などと規定してきたのです。
     ところが、かつて日本常民文化研究所の出版した『奥能登時国家文書』を、はじめから一点一点、一語一語まで厳密に検討しながら読みなおしているうちに、この常識がまったく間違っている事がたちまちのうちにわかってきました
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.237〜238)


     さらにまた、時国家は、中世末以来、町野荘(しょう)という荘園の中で、港に近い倉庫を持ち、年貢米や塩などの物資の出入りを管理していました。 この蔵に納められた米や塩について、大名の代官は時国家にあてて、必要な量を蔵から支出せよという命令書を出し、その書類をうけとった時国家は、自らの判断で物品の支出を行っていたのです。 ですから時国家は、蔵元の役割を江戸初期から果たしており、蔵に預っている米や塩の代銀を流用して、金融業を営んでいたと考えてよいようです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.240)


     廻船を営む百姓と頭振(水呑)
     ところが、さらに勉強しているうちに、われわれがほんとうに愕然と驚いた事実がでてきました。
     江戸初期、時国家と姻戚の関係にあり、深い因縁をもっている柴草屋(しばくさや)という廻船商人が、町野川の河口の港で活動しています。 戦国末期のころ、内浦の庵(いおり)にも柴草屋がいたことがわかっていますので、おそらくその名跡(みょうせき)を継いだ廻船商人で、大船をニ、三艘持ち、日本海の廻船交易にたずさわっていたのだと思われます。この家から時国家が、江戸初期に百両の金を借用していますから、柴草屋はそれだけの金を融通できる財力を持つ、富裕な廻船商人であったことは間違いなく、宮本常一さんもこの家に注目しています
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.242)


     ところが、文書を江戸時代前期まで読み進めていったところ、われわれは、この柴草屋が頭振(あたまふり)に位置づけられていることに気がついたのです。加賀・能登・越中の前田家領内では、石高を持たない無高の百姓を「頭振」とよんでいます。 しかし、能登でも天領では頭振を水呑(みずのみ)といいかえていますから、頭振は水呑のことで、柴草屋は水呑だったことになります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.242〜243)


     このように、水呑は地域によって名称がさまざまで、門男(もうと)、あるいは間脇(まわき)無縁雑家などといっているケースもあります。 江戸時代、年貢の賦課基準となる石高をまったく持っていない、つまり年貢の賦課される田畑をもっていない人のことを水呑といっており、教科書では、これを貧しい農民、小作人と説明するのがふつうです。 私自身もそれまで水呑については、そのレベルの常識しか持っていませんでした。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.243)


     ところが、柴草屋のような廻船商人で、巨額な金を時国家に貸し付けるだけの資力を持っている人が、身分的に頭振、水呑に位置づけられているということを確認した時、研究会に参加していた七、八人のメンバーは、最初は目を疑ったのですが、同時にまた、ああ、そうなのかと初めて気がついたのです。 たしかに柴草屋は土地を持っていない。 だから水呑になっているのですが、しかし柴草屋は土地を持てないような貧しい農民なのではなくて、むしろ土地を持つ必要のまったくない人だったのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.243)


     柴草屋は廻船と商業を専業に営んでいる非常に豊かな人ですから、土地など持つ必要は毛頭ないわけです。 ところが、江戸時代の制度ではこうした人もふくめて、石高を持っていない人びとが、水呑、あるいは頭振に位置づけられていたことが、これで非常にはっきりわかりました。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.243)


     注目すべきはその借銭の貸主で、出羽庄内の越後屋長次郎、若狭小浜の紙屋長左衛門、能登輪島の板屋長兵衛などの問屋(といや)をはじめ、同じ曾々木の三郎兵衛から円次郎の父親は多額の借金をしており、これによってこの人が日本海を手広く商売し、各地の問屋と取引をしていたことがよくわかるのですが、この借金をきびしく催促されると円次郎の生活が立ちゆかない。 ようやく、蝋や油の商売などでその日暮しはできるようになったので、借金の返却を五十年賦にしてもらえないだろうか、と円次郎が代官に願い出たのがこの願書で、なかなかおもしろい内容の文書なのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.244〜245)


     なかでも、北国新聞の記者はたいへん熱心な方で、電話を何度もかけてこられ、細かく質問された上で、書かれた記事を読み上げ、これで正確ですかと確認してくださったので、たいへんいい記事ができたと思ったのです。 ただ驚いたことに、「百姓」ということばはマスメディアではそのままでは使えない、一種の差別語の扱いをされていることをそのときはじめて知りました
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.245〜246)


     それはともあれ、おもしろい記事がでるだろうと、翌朝、楽しみにしていた新聞を見ましたら、なんと見出しには、「農民も船商売に進出」と書いてあるのです。 二時間の悪戦苦闘、何回かの電話はほとんど徒労に終わってしまいました。 もちろん記事はきわめてきちんと書いてあるのですが、デスクはやはりこれではわからないと判断したのだと思います。 しかしこの見出しでは明らかに誤りになるので、せめて「『百姓』も船商売」と書いてくれればよかったと思ったのですけれど。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.246)


     ほかの新聞は「能登のお百姓、日本海で活躍」、あるいは「江戸時代の奥能登の農家、海運業にも関与」という見出しでした。 百姓イコール農民という思いこみがいかに根強いかということを、われわれは骨身にしみて実感しました。 いちばんの傑作は、ベテランの記者が、「ああ、そういうのよくあるんですよね」とかいって、私の話を三十分ぐらい聞いただけで帰ったのですが、その人は、なんと、「曾々木で食いつめた農民円次郎が松前に出稼ぎに行った」と書いてしまった。 私どもも大笑いをしたのですけれども、百姓は農民というイメージの根深い浸透が、こうした大変な間違いを多くの人たちにおかさせる結果になっているのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.246)


     村とされた都市

     輪島の七一%の頭振(水呑)の中には、漆器職人、素麺(そうめん)職人、さらにそれらの販売にたずさわる大商人、あるいは北前船を持つ廻船商人などがたくさんいたことは間違いないところですし、百姓の中にも、輪島の有力な商人がいたことも明らかなのです。 先ほどもふれましたように、輪島の頭振(水呑)の中には、土地を〔持てない〕人ではなくて、土地を〔持つ必要のない〕人がたくさんいたことは明白といってよいのです。 とすると、百姓を農民、水呑を貧農と思いこんだために、われわれはこれまで深刻な誤りをおかしてきたことになります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.249)


     またこの食野の一族で、井原西鶴『日本永代蔵』の冒頭で、「波風静かに神通丸」、「三千七百石つみても足かろく、北国の海を自在に乗て云々」と述べた、和泉の唐金(からかね)屋も、佐野浦の百姓であることが確認できます。 このように、江戸時代の日本列島の海辺には、百姓水呑で、時国家や柴草屋と同じように、大規模な廻船業を営んでいる家は、無数にあるといっても差し支えないと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.253)


     実際、日本列島は、三千七百以上の島々からなり、海岸線は二万八千キロメートルにおよび、農耕地になりうる低地、台地は二十五%ぐらいしかないのです。 能登半島のような地形は日本列島の半島や島のいたるところにありますし、中世以前にさかのぼると、地形は現在とはだいぶ違っています。 たとえば、能登半島の町野川河口の小さな潟は、いまはほとんど消えてしまいましたけれども、昔ははるかに大きかったと見られますし、日本海海辺のいたるところにこのような潟があったことがわかっています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.253)


     また太平洋岸でも、岐阜県は、いまは海のない県といわれていますが、古代には大垣の近くまで海が入っていたのです。 かつて伊勢湾台風で水に浸かったところは、もとは海だったところだといわれている地帯ですし、大阪湾も同様に広く、南関東も、水郷地帯といってもよいほど水びたしでした
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.253)


     このように、中世以前の地形にまでさかのぼりますと、能登半島についてのべてきたようなことは、日本列島の全体にあてはまるに相違ありません。 そしてそうなりますと、日本列島の社会が、農民が人口の圧倒的多数をしめる農業社会であったという常識も、おのずと完全に覆るといわざるをえないわけです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.253〜254)


     しかしこれまで、私もふくめて、一般的に歴史家はこのようには考えてきませんでした。 二十年ほど前に私は『日本中世の民衆像』という岩波新書を出しましたが、そのころ中世の百姓が農民だけではないことははっきりと気がついていました。 それは百姓の負担する年貢のうち年貢米はむしろ少数派で、絹、布、塩、鉄、油などが年貢になっていることがわかっていましたので、中世の百姓は、決して農民などとはいえないと思っていたのです。 けれども、江戸時代に入れば、農業が発達したことも確実なので、「お百姓さんといわれるように、百姓は農民と解してもいいと思います」などと、この本には書いてあります。 そのため新しく刷られた本には補注を書き入れ、これが間違いであるとはっきり書きましたが、十年前は私もその程度の認識でした
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.254〜255)


     水田に賦課された租税
     では、どうして日本人はこういう誤った思いこみを長年にわたってしてきてしまったのか、これが大問題なのです。 ちょっと考えればすぐわかるように、百姓ということばは、本来、たくさんの姓を持った一般の人民という意味以上でも以下でもなく、このことば自体には、農民という意味はまったくふくまれていません。 古代の和訓では「おおみたから」と読まれていると思いますが、これにも農民の意味は入っていません。
     現在の中国や韓国では、「百姓」ということばは意味どおりに使われています。 ですから、中国人の留学生に、「あなたの国で使っている『百姓』をどのように日本語に訳しますか」と訊いてみましたら、しばらく考えて「普通の人」と答えました。
     そのとおりなのだろうと思うのです。士大夫(したいふ)、つまり官僚でない一般の人民を百姓と呼ぶのが普通の用法なので、現在でもそのまま用いられているのだと思います。 その留学生は、日本に来て「百姓」というとみなが農民だと思っていることに、最初は違和感を持ったといっておりましたが、まことに当然なことで、百姓は本来、農民の意味はまったくふくまれていないのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.257〜258)


     も同じで、これもに語源のあることばですから、本来、農村の意味はないのです。 にもかかわらず、厳密に実証的でなくてはならない歴史家、科学的な歴史学を強調している歴史家たちが、史料に現われることばを、使われている当時の意味にそくして解釈するという実証主義の原則、科学的歴史学の鉄則を忘れて、なぜ百姓という語をはじめから農民と思いこんで史料を読むというもっとも初歩的な誤りを犯しつづけてきたのか。 私も同様だったのですから決して偉そうなことはいえないのですが、これは非常に大きな問題で、簡単に解答を出し切ることはむずかしいのです。 しかし、いくつかの原因をあげることは可能だと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.258)


     襖下張り文書の世界

     また、奈良時代に廃棄された戸籍の裏に東大寺の宝物が記されたため、戸籍が残ったことは有名ですが、平安時代後期以降も、廃棄するはずだった文書の裏に日記や記録を書くことがさかんに行われています。 紙は大事でしたから、捨ててしまうはずの文書を裏返して、そこに日記、記録を記す。 そうすると、捨てられたはずの文書が残るわけです。 こうした文書を裏文書紙背文書(しはいもんじょ)といいますが、一般的にいってこうした文書には、非農業的な生業にたずさわる人びとの現われる頻度が、通常の経緯で保存され伝来した文書に比べるとはるかに多いのです。 また動産に関する文書が多いのも紙背文書の特徴で、保存されてきた文書とはかなり違った世界をそこからうかがうことができるのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.264〜265)


     安土・桃山時代から江戸時代になると、屏風の下に張られた文書が発見されます。 これを襖下張り文書といいますが、これも廃棄されてしまうはずの文書が、下張りに再利用されてたまたま伝わった文書なのです。 時国家では両家ともすべて襖紙を保存しておかれたので、われわれは襖下張り文書もすべてはがして、一点一点、整理することができたのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.265)


     蔵に保存された文書の整理がほぼ終わりましたので、最近この下張り文書の整理にとりかかったところ、驚くべき事実がわかりました。 時国家には、上下(かみしも)両家とも江戸後期に北前船を持っていたという話はありましたし、実際、船箪笥も実物が残っています。 ところが、上時国家の蔵に伝わった一万点近い江戸時代の文書を調べたかぎりでは、そのことをついに明確には確認できませんでした。
     ところが襖下張り文書を調べはじめたところ、仕切や商品の受取がたくさんあり、これらは間違いなく、上時国家が自分の家に残っていた文書の中で、いらなくなったものを経師屋(きょうじや)にわたして襖に張らせたものだということがわかったのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.265〜266)


     これまで歴史家は、襖下張り文書まで整理して丹念に調べることはほとんどやってきませんでした。 実際、近世の文書は膨大すぎてそこまでなかなか手がまわらないのですが、そのためにこの落とし穴にみなひっかかってしまっていたのです。 海民や山民の世界、廻船人・商人の世界は、多くはこうした廃棄された文書から知りうるわけですから、まさしくこれは切り落とされ廃棄された世界であり、この世界をもう一度世に出さなくては、日本社会像が非常にゆがんだものになってしまうことは確実です。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.267)


     ですから日本経済史の用語の中には、富農、中農、貧農、豪農、小農、農奴、小作農など、「農」がつくものが圧倒的で、海民、山民などまったく無視されており、そうした人びとについての学問的用語はほとんどありません。 またさきほどの時国家のような、多角的な経営をやっている家を的確に規定する学術用語を、現状ではわれわれは持っていないのです。 たとえば、奴隷性の強い海民を「海奴」「漁奴」などといってみても、いまの学界には通用しません。 しかしこうした海民は土地をまったく持っていないのですから、「農」ということばは使えないのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第一章 日本の社会は農業社会か》P.267〜268)


     縄文文化

     いずれにせよ、いままでわれわれが教えられてきたように、縄文文化が「島国」の中に孤立した文化であったとする見方は、完全に誤りであることが明らかになってきました。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.273)


     日本列島の内部でも、海を通じていろいろな物が動いていたことがわかってきており、千歳空港の拡張工事で発掘された美々(びび)遺跡からは、翡翠がたくさんみつかっています。 これは新潟県、糸魚川のあたりの翡翠で、かなりの年月をかけたにせよ、大量のものが新潟から海を通じて北海道に運ばれていたことがわかります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.273)


     こういう事例は数限りなく上げられるようで、長野県で黒曜石の工場のような遺跡が発掘されたという話もあります。 黒曜石の交易は日本列島の中で非常に活発に行われており、これはたまたま交易をしたというのではなく、最初から交易を前提に黒曜石の生産をする、いわば「商品生産」が縄文時代にすでにあったといえるのだと思うのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.273)


     商業の開始についても、これまでは新しい時代のことと考えられてきたのですが、交易のために物を生産することが行われていたとすれば、商業がすでに行われていたといってよいのではないかと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.273〜274)


     黒曜石だけでなくも同様で、日本列島の場合岩塩がありませんから、塩は海水からとらなくてはなりません。 最初のうちは「藻塩(もしお)を焼く」といわれるように、海草を使って鹹水(かんすい)(塩分の濃い海水)を得て塩を焼く煎熬(せんごう)をしていたのですが、縄文後期になると土器で製塩が行われるようになります
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.274)


     霞ヶ浦の沿岸などに大きな製塩土器が発掘されていますが、土器で塩をつくりますと、相当量の塩が一挙にとれます。 ですからこれは交易を前提にした製塩であるといって間違いないと思います。 塩がとれると魚貝の塩蔵も可能になり、その交易も行われるようになりますので、塩の交易、それにともなう魚介類の交易は、日本列島の社会の中でもっとも早く現われる商業で、塩商人魚貝商人は、やはりもっとも古い商人ではないかと私は考えています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.274)


     たとえば衣類にしても、など木の繊維を使った織物がありますし、木の実を入れる編み物の袋も作られています。 靴も履いている。 また道具も、弓矢や石器だけではなくて、木器もかなり高度なものが作られています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.274)


     弥生文化

     ふつう稲作は弥生時代からと考えられていますが、縄文晩期から瀬戸内海や北九州の一部ですでに稲作がはじまっており、稲作弥生土器はかならずしもセットであったわけではありません。 また、稲作のひとつひとつの技術がバラバラに入ってきたのではなくて、体系的な技術がまとまって入ってきた、つまりそうした技術を持つ集団が移住してきたことは確実なようです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.277)


     稲作だけではなく、多様な文化要素紀元前三世紀ぐらいから、列島の西部に、中国大陸朝鮮半島から流入してきます。畑作の作物や青銅器鉄器、それから養蚕織物の技術、新しい土器製塩の技術などが入ってきたと考えられています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.277)


     また、鵜で魚をとる鵜飼もこのころ列島に入ってきたようです。 鵜飼は列島の西部からはじまり、中世になると、ほぼ日本列島全域に鵜飼を生業とする人が広がっています。 ですから、生活を十分支えられる漁法だったわけですが、これも稲作といっしょに入ってきた技術のひとつです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.277)


     これらの文化がどこから持ちこまれたのかについてもさまざまな議論がありますが、だいたい中国大陸の南部、いわゆる江南および朝鮮半島を経由して入ってきたと考えられます。 たとえば、巨石を用いる支石墓金属器朝鮮半島から北九州に入ったのでしょうし、鵜飼や最近有名になった吉野ヶ里の遺跡については、江南の文化とかかわりが非常に注目されています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.277〜278)


     こうした稲作の文化は、紀元前三世紀ごろから非常なスピードで西日本に広がり、伊勢湾から若狭湾にいたる線から西までは、二、三十年で弥生文化が広がったといわれています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.278)


     最近、東北北部の青森にも弥生時代の水田の跡が発掘されており、稲作が意外に北まで広がっていたことがわかってきましたが、しかしこれは一時的なことで、東北に安定した稲作が行われるのははるかにのちのことで、やはり稲作はまず列島の西部を中心に広がったことは間違いないと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.278)


     そしてこのような広がり方を見ますと、弥生文化は、本来海をこえてきた文化でもあり、海や川を通じて広がったことは明らかです。 ですから弥生文化をもたらした人々は、元来、海に深いかかわりがあり、船を駆使するすぐれた航海の技術をもった人々であったと考えられます。 また、弥生時代になっても大きな貝塚があるわけですから、漁撈製塩狩猟採集依然として行われているわけですし、弥生時代は、はじめから海を視野に入れないと、理解しがたい文化であることも強調しておく必要があると思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.278)


     中国大陸や朝鮮半島との交流も、われわれがこれまで考えてきたよりもはるかに密接です。いろいろ議論はあるようですが、朝鮮半島の南部から、日本列島でつくった弥生土器が出土しているとのことですし、日本列島の西部、朝鮮半島の南部、あるいは中国大陸の海辺などの交流の中で、海と深いかかわりを持ちつつ、「倭人」とよばれる集団が形成されていくのだと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.278〜279)


     それゆえ、「倭人」は決して「日本人」と同じではないのです。 列島西部を中心とした弥生文化の担い手であるとともに、海をこえて朝鮮半島南部、あるいは中国大陸の一部にまで広がった人びとの集団であったと考えておく必要があります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.279)


     それは弥生時代の末期に書かれた『魏志倭人伝』によってもよくわかります。 注意しておく必要のあるのは、対馬についても、田畑がないのでもっぱら南北に交易を行って生活しているとあり、壱岐についても、若干の田地はあるけれども、生活を支えるには不足なので、やはり南北に交易していると書いてあることです。 これは壱岐、対馬だけでなく、島で成り立っている日本列島に広くあてはまることで、「末廬(まつら)国」といわれた松浦地域も同様と考えなくてはなりません
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.279)


     このように、日本列島の社会は当初から交易を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよいと私は思います。 これだけの人口がいるのだから、これだけの水田、田畑があるはずだというのは、頭から農耕のみによる「自給自足」を前提にして、漁撈、狩猟、採集などの他の生業を無視しており、決して事実にそくした見方ではないと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.279〜280)


     さらに『倭人伝』の中には、「国々に市あり。有無を交易す」という記事が出てきます。 この「国」はのちの郡の程度、あるいはもう少し小さな単位だと考えられますが、すでにそうした地域に市庭(いちば)が立っているわけで、交易の場がいかに重要であったかがよくわかります。 こうした市庭なしに社会は成り立ちえなかったのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.280)


     実際、平地に住む平地民生業としての田畑の穀物の生産、それに苧(からむし)などの樹木の栽培やその加工による諸生産、牧での馬や牛の飼養、海民の採取する魚介類や塩、山民の採集する果実や木材、それを素材として生産される炭や木器、漆器、さらにこれを燃料として生産される焼物や、山で採取、製錬される鉄・銅、および、それを加工した鉄器、青銅器など、こうした多様な生産物の交換が広い範囲で行われなくては、社会が成り立たなかったと考えなくてはなりません
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.280)


     山民海民との間の分業は、縄文期には成立しており、弥生時代には平地民との間にも分業が確立したと考えられますから、縄文期の塩や魚貝、あるいは石器の原料などの交易を媒介していた原初的な商業活動は、弥生期以降さらに活発かつ広域的になったと考えられます。 まだ、専業の商人ではなく、生産者が広い地域を動いて交易に従事するのがふつうだったと思いますが、それを支えたこの時期の交通の基本が海、川による交通であったことは、遺跡、遺物の分布をみてもはっきりとわかります。 川や海にかかわりを持った遺跡が多く、水系によって遺跡群のまとまりもあるようです。 しかもそれは予想以上に活発だったと考えたほうがよいようで、日本列島を横断する交通路は、早くから何本もあったと思われます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.280〜281)


     西と東の文化の差

     これまでの日本文化論・日本社会論は、朝鮮半島、中国大陸から主として北九州を窓口として先進的な文化、技術が入ってきて、それが瀬戸内海から近畿に入り、西から「後進的」な東に広がっていったとされ、こうしたあり方が日本列島の社会のその後の歩みに決定的な影響をあたえたととらえてきたのですが、この見方を徹底的にあらためる必要があると私は思います。北東アジアからサハリン・北海道を経て東北・関東へ、あるいは日本海を横断して北陸、山陰へという、西からの文化とは異質な東と西の交流の中で、社会・文化のあり方を総合的にとらえる必要があります
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.283)


     稲作についても同様で、弥生文化は紀元前一世紀ぐらいから、列島東部にも面として入りはじめ、東北南部まで稲作が広がっていきます。 ただこの場合も注意する必要があるのは、稲作が広がっていくことが社会の進歩であるというとらえ方はあくまでも西側のとらえ方で、それでは東の文化を正確にとらえることはできないと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.283)


     列島東部の文化は、稲作を受け入れつつ、独自な文化を明らかに発展させており、西が先進で東が後進などとは簡単にいえません。 東に先進的な要素もおおいにあるので、それが国家の成立以後の歴史にもはっきり反映していきます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.283)


     とくに弥生時代から日本列島東部ではが広く栽培され、養蚕が活発に行われています。 これが弥生時代のいつごろからなのか、古墳時代に入ってからなのか、私にはわかりませんが、日本列島西部の稲作のあり方と、列島東部の稲作のあり方は非常に違っており、日本列島東部の場合、稲作の栽培が、稲作と結びつきつつ広範に展開したと考えられます。 これは国家成立後の問題を考えてみる上でも非常に重要なことだと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.283〜284)


     古墳時代

     事実、弥生時代から古墳時代を通じて、相当の人が大陸・半島から列島西部に流入したようで、それも一万、二万の程度ではなく、長い時間、約一千年の間に数十万人から百万人以上といってもよいほど多くの人がわたってきたと考えなければ理解できないことが多いと、埴原和郎さんは強調されています。
     遺伝子の話なので私には立ち入れませんが、埴原さんによると、現在の朝鮮半島に住む人と西日本に住む人との間にはきわめて濃い類似性があるのにたいして、東日本人と西日本人との差違は、その差よりもはるかに大きいのだそうです。 そして東日本人はアイヌ人に近く、さらに沖縄人とアイヌ人がよく似ており、これは古モンゴロイドの形質を残した集団だと埴原さんは指摘しています。その上に弥生時代以降、西から新モンゴロイドが入ってきたのだというのです。
     これについてはいろいろな議論がありうるのでしょうが、ともあれかなり多くの人が中国大陸朝鮮半島から日本列島の西部に流入してきたことは間違いないようです。 ですから、さまざまな文化、技術が、そういう長期にわたる人の流入の中で、日本列島に入ってきたということができます
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.285)


     しかしそれとあわせて考えておく必要があるのは、列島外からの文化の流入が、やはりこの時期も決して西からだけではなかったと考えられることです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.285)


     周囲の地域との交流関係

     もちろん古墳時代に入れば、日本列島内外の物と人の交流は、海、川を通じてさらに活発になっており、ヤマト朝廷」ともいわれている近畿を中心とした首長たちの連合と、列島東部の首長たちとの関係も当然緊密になってきます
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.289)


     そういう首長たちの間の、政治的な結びつきにともなう貢物としての物の動きにたいして、その返礼が行われる。 つまり、贈与・互酬にともなう物と人の動き、さらにそれと結びついた情報の伝達は、弥生時代から古墳時代にかけて、列島内部で活発なものになっていたと考えることができます。 しかしそうしたヤマトと諸地域との関係だけでなく、さきほどもふれた諸地域の間の独自な交易が、広域的に行われていることを決して見落としてはなりません。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.289)


     とくに、北九州から瀬戸内海、大阪湾を通り、琵琶湖に入って北陸に出る列島横断のルートは、いちばん重要な幹線ルートとして、たくさんの人や物が動いています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.289)


     六世紀に入ったころ、ヤマトではそれまでつづいてきた王朝が絶え、それに代わってのちに継体(けいたい)といわれた人が越前から出てきて大王になりますが、この人の動いた足跡、その範囲は、越前はもちろん、近江、尾張、美濃から河内、摂津あたりにまでおよんでいます。 そして最後にヤマトに入ってくるわけで、継体は非常に広い範囲にわたって動いており、しかもそれぞれの地に妃を持っているのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.289〜290)


     貨幣の発生についてはいろいろな議論がありますが、この時期、交換手段として使われたと推定される物品は、列島西部では主としてだと思いますし、列島東部ではがおもに用いられたと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.293)


     は神に捧げる神聖な穀物ですし、逆に神からあたえられるものという性格も持っています。布や絹の場合も同様で、神に捧げられるもので、衣料を神に奉り、あらためて神からあたえられることによって、布や絹は貨幣になるのだと思います。 これが世俗の人間同士の贈与・互酬のさいに用いられますと、衣料などはとくに、人と人との関係をきわめて緊密にしますが、米や絹を神に捧げることによって、これが一般的な交換手段となり、貨幣として機能することになったのではないかと思います。 ですから古墳時代には、このような物品がすでに貨幣として用いられていたということができると思います。 そのほか、塩、鉄、牛馬も、貨幣の機能を持ったことがあります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.293〜294)


     『日本の歴史をよみなおす』ですでに細かくふれましたが、原初的な金融である出挙−−神に捧げた初穂上分(じょうぶん)を資本とし、これを種籾として貸し出して、収穫のとき利息の稲を取る−−は、この時期には確実に行われていたと思います。 こうした上分物(じょうぶんもつ)をたくわえる蔵を管理したのが当初は首長だったのだと思いますが、そうした金融を行う富裕な人びとも現れていたようです。 原初的な金融である出挙は、この時期には、列島西部で米や酒、東部では絹、布などを資本として行われていたと考えることができると思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.294)


     「日本国」の誕生

     さて、七世紀前後から八世紀初頭にかけて、ヤマトといわれたのちの機内を中心として、東北と、南九州をのぞいた本州、四国、九州を支配下に入れた本格的な国家が、初めて列島に成立することになります。この国家が「倭」にかえてはじめて「日本」という国号を定め、王の称号も天皇としたので、それ以前に「日本」、あるいは「天皇」の語を使うのは事実にそくしてみれば、完全な誤りといわなくてはなりません
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.295)


     たとえば、「旧石器時代の日本」「弥生時代の日本人」という表現は明らかな誤りですし、『日本の歴史をよみなおす』でもいったように、「聖徳太子は倭人であっても日本人ではない」ということを、これからも強調しておかなければならないと思っています
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.295〜296)


     実際、この国家、「日本国」が確立すると、これまでとは、ようすがガラッと変わってきます。 この国家の支配層が、とくに六世紀以降の中国大陸や朝鮮半島との交流を前提にして、初めて本格的な「文明」を体系的に日本列島に持ちこみます。 中国大陸に成立した大帝国、唐の制度を本格的に導入したのです。  当時の日本列島の社会は、まだかなり「未開」であり、逆に柔軟な社会だったと思うのですが、そこにきわめて硬質な中国大陸の文明的制度が受けいれられることになりました
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.296)


     まず戸籍制度を実施し、すべての人民に氏名(うじな)、姓(かばね)と名前をつけて、年齢までふくめてこれを戸籍に書き載せます。 すれを台帳にして、六歳以上の奴婢までをふくむすべての人民に一定の基準を定めて水田をあたえ、それを基盤にして祖、庸、調、雑徭(ぞうよう)などを徴収する租税制度を確立します。 さらに戸籍によって定まった戸を基礎に、五十戸を一里(郷)とし、国・郡・里(郷)という地方の行政制度をつくり、令(りょう)に定められた中央の官庁をふくめ、すべての行政を文書で行うという、徹底した文書主義の原則で制度を運営します漢字はこの制度を通じて広く日本列島にゆきわたっていくことになります
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.296)


     もちろん、水田を基盤とした租税制度には、原初的な金融である出挙の制度が取り入れられていますし、調庸もそれまでの交通の発達を前提とした「みつぎ」−−貢納であり、この国家のできる前からの実態を前提にしてはいますが、ここで非常に強力な求心力が畿内の宮都にできますので、各地域の特産物が都に集中して運ばれるようになります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.296〜297)


     一方、都の官庁や国・郡の官衙(かんが)には、それまで列島の社会に蓄積されてきた技術を持つ工人、芸能民も組織されたのですが、とくに注意すべきは、この国家の交通体系が陸上交通を基本にしていることで、都を中心にして幅十数メートルの舗装された道路を、できるだけ真っ直ぐにつくっているのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.297)


     東海、東山、北陸道は東に、山陰、山陽道が西に、南海道が南に、都から四方にそうした直線的な道路がつくられ、それを軸に広域的な地方制度としての道ができているわけです。 九州だけは、大宰府を中心にした西海道になっていますが、このような直線的な道を基盤にした陸上交通が、この国家の交通の基本になります
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.297)


     それまでは、海上交通、河川の交通が中心だったのですが、この国家はそれを無視するように、強烈な意志で陸上の道を基本においた交通体系をつくるのです
     交通の施設である駅家(うまや)もこの道にそって、四里の間隔で設けられていますが、河川の多い列島の地形にもかかわらず、水駅(みずのうまや)がほとんど見られないのです。 辺境の出羽の最上川にほずかに水駅が見られる程度で、少なくとも制度的には河川の交通は配慮されていないといわざるをえません。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.297)


     なぜこのような不自然な制度をつくったのか、理由はいろいろとあると思います。 唐・新羅と戦って敗れたばかりのこの国家にとっては、軍事的な理由が非常に大きかったと思いますが、そうした当面の必要というだけでなく、より本質的にはこの国家が、小さいながら古代帝国を志向していたからだと考えられます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.297〜298)


     古代の国家は、帝国主義的に四方に勢力を広げていく志向を共通してもっており、ローマ帝国の道も、ペルシア帝国の道も、インカ帝国の道もみな、できるかぎり真っ直ぐにつくられています
    「日本」を国号とした律令国家も、これらの国家と同様に、古代帝国的な文明の特質を備えていたことは、このことからもよくわかります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.298)


     そして、この国家の諸制度の基本にあるのは農本主義で、「農は天下の本」、「農は国の本」ということがくり返し強調されています。 水田を基礎にした租税制度をとっている以上、これは当然のことで、このような儒教を背景にした農本主義的な文明が、畿内を中心に西日本を主要な基盤とするこの国家の制度を通して、日本列島の社会にたいして、強い影響をおよぼすようになってきます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.298)


     またこの時に初めて、朝鮮海峡国境の意識をもって考えられるようになったことも注意すべきで、対馬に、朝鮮半島に向かって防人の護る城がつくられているのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.298)


     ただ、津軽海峡はまだ決して国境にはなっていません。 この国家の支配者にとって、中部から関東までの「東国」は異質な地域であり、半分は征服、半分は連合のかたちで支配をしてきたところなのです。 そのため、最初から東国には非常に気をつかっているのですが、関東地方までは、この国家の行政制度がゆきわたっています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.298)


     「日本国」の範囲

     この国家は、また当然、商業・流通を統制下におこうとしており、都の東西の市、各国の国衙(こくが)の市を、公的な交易の場所として公認しています。 しかし前にもふれましたように、国家成立以前から行われていた、交易、商業、金融の活動は、このころ国家の統制をこえてさらに活発になっていますが、非常に興味深いことに、そうした商業金融にたずさわっている人のなかに、女性僧侶が多いということです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.303)


     仏教の功徳を説いた『日本霊異記』という説話集は、八世紀のころのことを記述していますが、そのなかには、酒や米を出挙するとき、小さな升で貸して大きな升で取り立てるという、不法な利息を取った田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしのめ)という女性の話がでてきますし、大安寺の仏物(ぶつもつ)の銭を人に貸し、利息を取って、豊かになった女性の話もあります。 さらに同じように大安寺の仏物を持って、奈良から越前の敦賀に下って商売をしている僧侶もおり、女性と僧侶が金融や商業の担い手になっていたことを確認することができるのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.303)


     その理由は簡単にはいえませんが、ひとつにはこの国家が、基本的な租税、調・庸などの負担者を、二十歳以上の成年男子に定めたことに理由があると思います。 つまり、成年男子公認された国家の成員で、女性や僧侶はいわば基本的な国家の成員からはずれることになったわけです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第二章 海からみた日本列島》P.303〜304)


     荘園公領制

     十一世紀後半から十三世紀前半までの間に、中世の土地制度、荘園公領制が確立します。 そのうち、公領には、(ごう)・(ほう)・(みょう)という名称の単位があり、荘園は荘ですが、これまでは荘園と言うと、田畠を対象とした大土地所有で、その所有者が、下人(げにん)や百姓を駆使して農業経営を行う経営体だと考えられてきました。
     しかし、実際には荘園も公領も、基本的には租税−年貢・公事(くうじ)の請負の単位なので、郡・郷・保・名などの公領は、国衙を通じて知行国主に租税を納め、荘園は天皇家摂関家、あるいは大寺社などに、それぞれ直接租税を納める単位なのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.321)


     そして郡・郷・保・名・荘には、郡司郷司保司名主荘司などに任命されている有力者がいて、この人たちが一定の面積の田畠についての租税納入を請負い、それを知行国主、あるいは荘園の支配者に納入している、これが荘園公領制とよばれる制度です
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.321〜322)


     鉄・紙・漆の荘園、新見荘

     実際、高梁川をずいぶんさかのぼった山間部にあり、荘園全体の領域の中では、田畠より山地の方がはるかに多く、焼畑を最近までやっていたところですから、山のなかの辺鄙な荘園というイメージを、多くの学者が抱いてきたのは当然だともいえます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.328)


     しかし、冒頭でお話したように、百姓は農民とは限らないのだということを念頭におきながら、たらためてこの荘園の文書を読みなおしてみたところ、この荘園についての私のイメージは決定的に変わってしまいました。 そのことを少しのべてみたいと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.328)


     まず、この荘園の、もっとも山奥の中国山地に近いところの地域は吉野(高瀬村)といわれていますが、そこの百姓は、十三世紀後半までを年貢として出しているのです。 さきほどのべたように、田地一反ごとに鉄五両という割合で現物の鉄を負担しているのですが、この吉野の地域に行ってみると、いまでも「金(かな)くそ」、鉱滓(こうさい)がいっぱい残っており、戦争中、この金くそからもう一度鉄を取ろうとして会社をおこした人がいたというぐらいの量が残っていたのだそうです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.328)


     また、鉄器関係の仕事をする人のまつる金屋子(かなやこ)神社もあり、ここに製鉄民の集団がいたことは明らかです。 もちろん、若干の田畠は所持していますが、基本的には生活を製鉄で支えている人びとだったと思います。考古学の発掘が行われれば、製鉄炉もでてくるのではないでしょうか
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.328〜329)


     こうした製鉄民を背景として、この荘には「職人」として公認されている鍛冶の集団がおり、百姓の中には鋳物師もいます。鋳物師も、供御人神人になった「職人」だけでなく、百姓の鋳物師もいたのです。 この時代の鍛冶はもつくりますが、むしろ(かすがい)をつくる建築工で、番匠(ばんじょう)、つまり木工の職人と結びついており、この荘園には給田畠(きゅうでんぱく)−給与を保証された「職人」としての鍛冶集団と番匠のいたことがわかります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.329)


     また新見荘は現在でもそうですが、中世からの特産地であり、荘園の全域で紙が生産され、百姓名ごとに一定量の紙を公事として負担しています。 こうした百姓たちの製紙を背景に、高級な紙、檀紙をつくる「職人」もこの荘にいたことがわかっています。 しかし、その背景に百姓たちによる製紙の技術が広くあった事実を見おとすことはできません。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.329)


     さらに、新見荘にはの木がたくさんあり、百姓たちがそれを育てています。 そして漆の木一本について、百姓は漆一勺二才五厘の割合で公事の漆を負担し、京都に現物で送っています。 ですから、百姓が漆掻(うるしかき)をやっていたのだと思いますが、こうした漆の生産に結びついて、木器の工人である轆轤師(ろくろし)、つまり木地屋集団がこの荘にはおり、漆を木地に塗る塗師と一緒に漆器をつくっていたこともわかります。 この轆轤師も、公認された給田畠を保証された「職人」です。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.329〜330)


     このように、新見荘では鉄を生産して鉄器をつくり、漆をとって木器・漆器の生産もやっているわけです。 しかも「職人」の集団だけでなく、全荘域で百姓たちがこのような生産を行っていたのです。 それだけでなく、雉、薪、炭、鹿皮、茸など、非常に多彩な山の幸を狩猟、採集したり、加工したりしているのですが、こういう多様な生業を営み、生活しているところを、これまでのように“農村”といったたけでは、とうてい、その実態を表現できないことはいうまでもありません。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.330)


     これからわれわれは、さまざまな性格の村について、その規定のしかたをいろいろ考えなければいけないと思うのですが、渋沢敬三さんの表現を拝借すると、新見荘は、農村であるとともに、色濃く山村的であり、同時に、手工業に従事する人の多い工村という性格をあわせ持っているといってよいと思うのです。 こうした工村」という用語は、これまでの学界には通用していませんが、日本の社会には鍛冶屋村、金屋村などの、まぎれもない工村がたくさんありますので、こういう用語は十分に使う事ができると思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.330)


     銭の流入

     こうした唐船が中国大陸から運んでくる輸入品のうち、最大の量を占めていたのが陶磁器でした。 さきほど新安沈没船からも、完成品の青磁、白磁が何万個も引き上げられています。 これはきわめて珍しい貴重な例ですが、この船は、京都の東福寺の造営費を得るために、中国に貿易に行った船であることもわかっているのです。
     それはともかく、このように中国大陸から流入した大量の銭が、社会に貨幣として浸透し流通するのは、東日本では十三世紀前半、西日本では十三世紀後半ごろからです
     大変面白いことに、一二、三世紀ごろまで貨幣としてが流通していた東国−東日本では、西日本よりも早く銭貨が流通しはじめます。銭十文を一疋といいますが、「疋」という単位が、絹や布の単位であることを見ても、絹・布がただちに銭に変っていったことをよく理解できます
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.334)


     これにたいし、畿内・西国−西日本では米が早くから貨幣−−交換手段、価値尺度として用いられており、平安時代の末には替米(かえまい)という米の手形も現われています。 つまり、現物を動かさないで、手形で米の支払いをすることも行われているほどてすから、貨幣として十分有功に機能していたと思われます。 それだけに西日本では銭の流通がおくれ、米の貨幣としての機能が根強く残ります。 ですから東日本では、十三世紀前半には、絹・布にかわる銭の流通は幕府も認めていますが、西日本では十三世紀後半から、銭が交換手段、支払手段として本格的に流通するようになります。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.334〜335)


     こうして十三世紀後半から十四世紀になると、鎌倉幕府は百貫文の所領、五百貫文の「土貢(どこう)」の所領というように、地頭や御家人の所領の年貢公事(くうじ)−−「所出(しょしゅつ)」を、貫高で表示するようになり、関東公事(くじ)といわれる御家人にたいする課役も、銭で徴収されているのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.335)


     そのころになると、富の象徴としての銭の蓄蔵もさかんに行われるようになります。 これに関連して鎌倉末・南北朝期、十四世紀以降、大量の銭が土中から掘り出される事例が非常に増えてくるのです。 これについては、埋納銭(まいのうせん)」あるいは「備蓄銭」とよばれていますが、いろいろな議論があって、決着はついていません
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第三章 荘園・公領の世界》P.335)


     悪党と海賊

     当時の尾張、美濃の地形はいまとは大変ちがって、海が深く入りこんでいますので、悪党の中に海や川にかかわる海賊もいたと思うのですが、そのような海賊悪党たちが、公権力とかかわりなく自立的に高札を立てて、一遍たちの交通路の安全を保証しているわけです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.349)


     これらの悪党や海賊の実態は、「海の領主」、「山の領主」のような、交通路にかかわりを持つ武装勢力をはじめ、商業・金融にたずさわる比叡山の山僧や山臥などであったことがわかっています。 このように、交通路の安全や手形の流通を保証する商人や金融業者のネットワークは、十三世紀後半から十四世紀にかけて、悪党・海賊によって保証されていたと考えられます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.349)


     これらの人びとはみな、もともとは「遊手浮食の輩(ともがら)」などといわれ、博奕などにもたずさわっていた人びとですが、このころの悪党・海賊は広域的な組織を持っており、何かもめ事がおこると、賄賂礼銭をとり、訴訟を請負って、トラブルを自力で解決しています。 公権力がとりあげてくれない訴訟を請負って解決してくれるわけですから、紛争の当事者も積極的に代償をはらって悪党にその解決を依頼するわけで、事前に賄賂をとるのは「山ゴシ」、事後に礼銭をとるのを「契約」といったといわれています
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.349)


     一遍の教え−−都市的な宗教

     重要なことは、一遍の教えが津・泊などの都市的な場所に広まっているということです。『一遍聖絵』を見るとよくわかりますが、一遍は遊行という方法で、遍歴−旅をしながら布教をしているわけですが、これは交通のネットワークが安定していなければできないことだと思います。津・泊や宿などのネットワークができているからこそ、遊行は布教の方法になりえたのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.357)


     また一遍「六十万人決定往生」、つまり六十万人にたいして札を配る「賦算」を目標にしていますが、六十万人という数は、当時の人口を考えると相当の比率になると思うのです。 これも不特定多数の人間がたくさん集る場所、つまり都市的な場がいたるところにできているからこそはじめて可能だった、だから一遍が目標にしえたのだと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.357〜358)


     海の慣習法

     また十五世紀前半に、朝鮮の使者として日本を訪れた宋希m(ソンギヒヨン)という人が『老松堂(ろうしょうどう)日本行録』(岩波文庫)という旅行記を書いています。 当時の西日本の社会・風俗を知るうえで大変おもしろい史料なのですが、その中に海賊についての詳しい記述もみられます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.366〜367)


     この人の一行が、安芸国の蒲刈(かまがり)島に泊まったときの話は、さきほどの堅田の話とそっくりなのです。東から来た船は東の海賊をひとり乗せておけば、西の海賊はそれにたいしていっさい口を出さないし、逆に西からの船は、西の海賊をひとり乗せておけば、東の海賊は襲撃をしないというのです。 つまり、この蒲刈島を境に西の海賊と東の海賊の縄張りがあったわけですが、そこでこの人は東の海賊に銭七貫文を支払って船に乗せ、西に向かって安全に航海したとこの記録に書いています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.367)


     このような海の作法はこのころ一般的になっており、海の領主湖の領主縄張りができていて、関所料警固料を支払えば、縄張りの中については船の航行の安全が保証されたわけです。 こうした海の領主はこの時代、肯定的な意味で「海賊衆」とよばれました。 山の道でも同じことがあったのですが、山の領主をプラス評価でよぶ場合は「山賊衆」ではなく「山立(やまだち)」といったのだと思います。このころの「海賊衆」ということばにはマイナス評価の意味はなくて、水軍、海の領主の表現として使われ、十五、六世紀にはこれで通用するようになります
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.367)


     このような縄張りをおさえるために、海の領主、「海賊衆」は、港を見下ろす岬、船がかならずそこを通らなければならない航路にあたる島などに、「海城」ともいえるような城を構えていました。 これは警固所であるとともに見張り所でもあり、そこで航行する船を監視しているわけです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.367)


     こういう海賊は、瀬戸内海や日本海にもたくさんありますし、北海道にも上ノ国町の勝山舘(だて)のような港を睨んだ城や館が多く見られます。 これまで、というともっぱら内陸部の山城だけが考えられていましたが、日本列島の城を考える場合、こういう「海城」を度外視しては、ほんとうの理解はできませんし、山城についてもこれと同じような視点が必要だと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.368)


     一九九三年の冬にはじめて沖縄に行きましたが、沖縄の城、グスクもみな海を睨んでいます。 本州の海城と、意外に似たところがあると思いましたが、グスクと聖地であるウタキはときに重なっており、これは本州・四国・九州でも同じで、はしばしば神が祭られる聖地で、それに通行する船が捧げる上分初尾(はつお)が関所料の起原なのだと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第四章 悪党・海賊と商人・金融業者》P.368)


     「農人」という語

     このような動きのなかで、「農本主義」とは逆に、農業を蔑視する考え方が日本の社会に、十五世紀のころには生まれてきたと思われます。 さきほど強調しましたように、百姓は農民を意味することばではないので、それとは別に古くから「農民」ということばも使われていますが、注意して文献を見ていると農人」という語が意外に古くから使われていることがわかります
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.371)


     これは『日本後紀』の弘仁二年(八一一)の記事が最初で、天長元年(八二四)の官符にも「農人」という語が出てきますし、『庭訓往来(ていきんおうらい)』(三月状往)には、「開作すべきの地もあらば、農人を招きすえてこれを開発せしむ」とあります。 さらに降って江戸時代後期の、『防長風土注進案』という毛利氏のつくった地誌でも、「百姓」のなかに「農人」が何軒、「商人」が何軒 、「鍛冶」が何軒などという分類統計をやっています。百姓=農民ではないことはこれでよくわかるのですが、このように「農人」は古代から近世まで一貫して使われた、これこそ農民を表現することばなのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.371〜372)


     重大な問題だと思いますのは、十五世紀後半につくられたと推定される『三十二番職人歌合』という「職人歌合」があり、三十二種類の「道々の者」「職人」が描かれているのですが、その中に「農人」がでてくるのです。 いわゆる「職人歌合」の中では、これが唯一の事例です。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.372)


     しかも注意しておかなくてはならないのは、この歌合には、このころ賤しめられはじめていることの確実な、千秋万歳絵解(つがい)からはじまり、鉦叩(かねたたき)、猿曳(さるひき)、鳥さしなど、やはり賤視されるようになりつつある職能民を描いており、実際、その序文には、「我等三十二余人、いやしき身しなおなしきものから」と書いてあるのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.372)


     もちろんこれを作ったのは貴族で、当時賤しめられはじめている職能民たちに歌合をやらせるという形にしているのですが、重大なことは、この中に「庭掃き」と番になって「農人」が出てくるのです。 とすると、ここでは「農人」が賤視されつつある職能民の一種とされていることになるといわざるをえないので、たしかに番とされた「庭掃き」は御庭者(おにわもの)といわれ、土木工事にたずさわり、庭園をつくる河原者といわれた人びとをさしていると思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.372〜373)


     善阿弥は将軍直属の「公方(くぼう)御庭者」として有名ですし、天皇に直属する「禁裏(きんり)御庭者」もおり、御庭者=山水河原者(せんずいかわらもの)は貴人とつながりをもった人びとではありますが、この時期には確実に賤視されていると思います。 そしてここで庭掃きと農人とが番にされているのは、両者とも土とかかわるからだと思います。 大地に変化を加えることを穢れとする見方は古くからあったのですが、このころになると、土をいじること自体が穢れており、それは汚れた仕事だという理解のしかたがあったと考えられますので、この絵巻物ではそういう見方から農人をむしろ賤視する立場で描いていると考えざるをえないのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.373)


     しかし、十五世紀後半そういう見方が出てくるのは、十分ありうることです。 同じころのものですが、さきにもあげた『本福寺跡書』という本があります。 これは、琵琶湖の堅田にある真宗寺院の本福寺の住職明誓の書いたもので、堅田に来たことのある蓮如(れんにょ)の動きもふくめて、このころの堅田をめぐる状況をいろいろな角度から記しており、この時代の真相を考えるうえで非常に重要な史料なのですが、そのなかで明誓は「田作(たづくり)にまさる重い手はなし」−−田畑をつくる農業ほど苦しい仕事はないと強調しているのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.373〜374)


     そしてその反面で、鍛冶屋桶師研(とぎ)屋番匠はみな分限者(ぶげんしゃ)、お金持ちであり、そういう人びとや、穀物や食品を売る商人は、「悲しき年、餓(かつ)え死なぬもの」−−不作でたいへん難渋する年でも飢え死しないともいっています。 このように商人や工人を、農人よりも高く評価する姿勢を『本福寺跡書』の著者明誓が持っていたことを、ここからはっきりと窺うことができます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.374)


     また「士農工商」ということばの用例の早い例は、蓮如『御文(おふみ)』で、そこで蓮如は「侍能(しのう)工商」と表現していますが、武士を高い身分とし、工商を見さげるような見方は、蓮如にはまったく見られませんは耕作に身をまかせ「つくりを本と」する人びとで、商業は、「朝夕は商いに心をかけ、あるいは難海の波の上に浮かび、恐ろしき難破にあえることを顧みず」に商売をする、と非常に高く評価しています。 むしろにあたるところで、「芸能をたしなみて人をたらし、狂言綺語(きぎょ)を本として浮世をわたる」といっており、「」もふくめているようにみえますが、のちの「士農工商」の見方とは大変ちがいます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.374)


     しかし、この時期の真宗の信者の中には、さまざまな職能のなかで、農業を低い生業と見る人もいたことは確実で、少なくとも農業を尊重せず、むしろ商工業に高い評価をあたえる見方があったことは、とくに注目すべきです。 このように、十五、六世紀に日本の社会のなかにあらわれてきた「重商主義」的な思想のなかで、真宗がとくにその先端をいっていたと見てよいのではないかと思います
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.374〜375)


     飢餓はなぜおきたのか

     そのひとつは飢饉の問題です。 飢饉が本格的に問題になりはじめるのは十三世紀ごろからだと思います。 もちろん古代から凶作はあったと思うのですが、社会にそれが決定的な意味を持ち、政府が飢饉そのものを正面から取り上げなければならない状態になるのは、有名な寛喜(かんぎ)の飢饉(一二三〇年)や、正嘉の飢饉(一二五八年)からではないでしょうか
     それ以後、室町時代に入り、十五世紀なかばに寛正の大飢饉があり、江戸時代になると、まず寛永・延宝の飢饉が有名ですし、享保・天明・天保の三大飢饉についてはあらためていうまでもありません。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.382)


     気候の変動による凶作がその原因であるのはいうまでもありませんが、それが飢饉という現象になってあらわれてくる理由については、あまり煮詰められてこなかったと思います。 それゆえ、あらためて飢饉の実態を、本気で追求してみる必要があります。
     一例をあげてみますと、『妙法寺記(みょうほうじき)』という、十五世紀後半から十六世紀にかけての、甲斐国の富士吉田の状況を非常に詳細に書いた記録が残っています。 甲州では国中(くになか)にたいして郡内といっていますが、都留(つる)郡の吉田のそのころの事情が細かくわかる大変おもしろい記録です。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.382)


     これを見ますと、しばしば小規模な飢饉がおこっています。売買が高いと飢饉がおこり、売買が安いと世間が富貴(ふっき)すると記録されていますが、売買されているのは、米、大麦、小麦、アワ、ヒエ、大豆という穀物です。 だから食料の物価があがると餓えるといわれているわけです。 また、「銭けかち」というおもしろいことばがあり、十六世紀になると銭不足がおこっています。 これは撰銭(えりぜに)が行われて、悪銭が通用しなくなったため銭が不足して、そのためにせっかく売買が安いのに代銭がないということもおこっています。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.383)


     それはともかく、これまで郡内は、記録にも飢饉がしばしば出てくる非常に貧しい地域だと多くの学者は考えてきたと思います。 実際、郡内地方は、いまでも水田はきわめて少ないのです。水田がないと貧しいという常識からいうと、山梨県全体が水田が少ないので貧しいとされるのですが、国中の平野地域は、山梨県の中では水田が多いからやや豊かなほうで、郡内は山の中で水田がないから貧しい所だとこれまでは考えられていたのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.383)


     ですから『妙法寺記』に、「けかち」「世間が詰まる」のような記事が出てくると、吉田には田地がなくて貧しいから飢饉がおこったのだと考えられてきたのですが、さきほどいったように、穀物の値段が高いと飢饉がおこっているのですから、この地域は食糧を他から購入している地域であったと考えなくてはなりせん
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.383)


     だからこそ、穀物の値段が下がると豊かになるという状況がみられたので、郡内は、貨幣−銭で食糧を買っている地域だったのです。 どうしてそのような銭を儲けているのかを調べてみますと、富士参詣道者(どうじゃ)がたくさんの参詣人を吉田に連れてくるのですが、そうした人たちが吉田の宿坊にとまり、銭をおとしていくわけですつまり、十五、六世紀ごろの吉田は、都市的な地域だったと考えられるのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.383〜384)


     飢饉はまずこのような非農業的な地域、都市的な場におこるのだと思います。 この地域では、有名な郡内騒動幕末におこりますが、これもやはり凶作食糧不足が原因なのです。 これについて、すぐれた近世史研究者の山口啓二さんが『鎖国と開国』(岩波書店)でふれておられます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.384)


     とすると、寛喜のころから飢饉がおこったということは、十三世紀前半には、鎌倉や京都などはもちろん、各地に都市的な場所が顕著に現れており、まずそういう場で飢饉がおこったのだと考えられます。 われわれ自身の、戦争中から敗戦後にかけての経験からいっても、実際に食糧をつくっている地域はそう餓えるものではありません。そこから切り離されて食糧を購入している都市民がまず干上がるのは、考えてみればあたりまえのことです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.385〜386)


     そうなりますと、江戸時代の三大飢饉とされている享保・天明・天保の飢饉東北に餓死者が大量に出たとされている飢饉も、単純に東北が貧しいからだとはいえないのではないでしょうか。 農村地域に壊滅的な飢饉がおこったと考えてよいかどうか、この点は徹底的に再検討の必要があると思うのです。つまり東北は、意外に都市的な性格を持つ地域だったのかもしれません。 だからこそ、作柄の不況によって決定的なダメージをあたえられた可能性も充分あります
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.386)


     このように、飢饉の問題もこれまでとは違った角度でとらえなおす必要があるのです。 これまで、江戸時代の貧しさと悲惨さを飢饉で象徴させてきたと思いますが、じつはまったく逆で、都市的な世界が広くひろがっていて、そうした都市的な人口が高い集中度を持っていたがゆえに、不作・凶作がそういう地域に決定的なダメージをあたえたのだと理解しますと、むしろ飢饉のひどさは都市化の進行の度合いを示すという捉え方も可能になってきます
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.386)


     封建社会とはなにか

     最近、やはり奥能登の旧家の上梶(かみかじ)家に保存されていた、手製の手習のお手本を調査する機会がありました。 その中で、たまたま元禄十三年(一七〇〇)の手本を見ていましたところ、「此三四年打続、餓死及、人民共難儀仕候、喰料御才覚頼入候(くいりょうごさいかくたのみいりそうろう)」という文章のあるのをみつけました。 もちろんこのころに飢饉がおこっていたわけではないのです。 これは百姓の願書の文例集ですから、困ったときはこのように書くのがふつうだったのだと思います。 ですから、百姓の申状に飢饉で餓死しそうだとあってもすぐに信用するわけにはいかないのですこれは中世でもしばしば見られることで、百姓のこうしたしたたかさを十分に計算にいれて文書を読む必要があるのです橘川俊忠「史料としての手習本」『歴史と民俗』12、平凡社)。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.387)


     海上交通への領主の関心

     鎌倉時代地頭・御家人はみな、そのように海や山の交通路を強く意識していますが、室町時代になれば、海上交通・貿易はさらに活発になっており、商品流通も本格的になっているのですから、この時期の守護大名が、そういう分野を意識していないはずはないのです
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.397)


     江戸時代になっても同様で、大名が領地を獲得するさいに、河海の交通を意識していたに相違ないと私は思います。 室町時代の守護大名や江戸時代の大名についての、そういう視角からの研究はほとんどないのですが、江戸時代の仙台の伊達氏が、霞ヶ浦の潮来(いたこ)に飛地を持っているのは、間違いなく水上交通の要地を押さえるためだと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.397)


     「重商主義」の潮流

     敗戦後まもなく服部之総さんが、桃山時代初期絶対主義と規定されたのは的確だったと思いますが、結局、江戸時代に「絶対主義は流産した」ということになってしまいましたし、その後もこの説はほとんど無視されていました。 しかしこういう見方は、これからもっと大きくのばすことが充分に可能で、今後、確実に深められていくと予測できます。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.402)


     こう考えてきますと、「明治維新」やそれ以後の「近代化」の問題も、これまでとは全然違った見方ができるようになると思います。 明治維新」を推進した薩摩長州土佐肥前の諸藩は辺境のおくれた大名などではなくて、みな海を通じて貿易をやっていた藩だと思います。 薩摩が南に北に密貿易をやっていたことは明らかで、他の藩も同様な動きをしていたのではないでしょうか。 だから坂本龍馬のようなタイプの人も出てくるので、江戸時代末までに日本社会に蓄積されてきた商工業・金融業などの力量、資本主義的な社会の成長度は決して過小評価できないと思うのです。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.402)


     その一例として、現在使われている商業関係の用語が、みな中世以来の歴史的な語彙を用いている事実をあげることができます。 たとえば、「相場」は中世から使われていることばで、「場」は「庭」で、市庭で出会って値段を決めることからはじまったことばだと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.402)


     また、小切手の「切手」や「切符」は、平安時代からあることばです。 「切る」ということばに重要な意味があり、当時の徴税令書は、切符・切下文などといわれていますが、金融業者国守官長に貸した米などを、この切符で取立てています。 ですから、切符、切手は、平安時代から手形の意味を持っていたことになります。 その「手形」も非常に古いことばですし、「仕切」も同様です。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.403)


     の分野のことばも同じで、「株式」の「株」はおそくても江戸時代以来の語、「」は「(しき)」で中世以来の語ですし、寄付(よりつき)とか大引(おおびけ)など、おもしろいことばがたくさんあると思います。 そういう商業用語を収集して、歴史的、民俗的にその意味を追求してみると、かならずおもしろい発見があると思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.403)


     このように、日本社会の古くからのことばが現在でも商業用語として用いられているということは、欧米経済と接触したとき、この分野では翻訳語を用いる必要がなく、自前のことばを使って十分通用したということだと思います。
    (《続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす》P.403)